1度見てるんで、内容は知っていたんです。遠ざけたかった作品でもありますが、見ました。泣きました。マジ泣きで。
7才程度の知能しか持ってないサムに、娘が産まれた。しかし母親は、サムに娘を押し付け逃げてしまう。子育てもままならないサムの隣のアパートに住んでいるおばさんが、サムに子育てを教え、娘のルーシーはすくすくと育っていく。
ルーシーは、母親がいないことを理解している。ルーシーは、父親が他の人と違うことを理解している。ルーシーは、自分が読める単語を父親が読めないことを理解している。それを理解した上で、ルーシーはサムを愛している。サムもルーシーを愛している。
でも、ルーシーが7才の誕生日が過ぎ、社会が、法律が2人を引き離す。サムは、純粋に、ルーシーのそばにいたいだけなのに。ルーシーはサムを理解しながらサムのそばにいたいだけなのに。
途中で、裁判のため、弁護士をお願いすることになる。行った先には、キャリアウーマンを絵に描いたような女性弁護士。
サムの純粋さと、自分がしてしまったことから慈善事業で、サムの弁護士となる。その弁護士にも1人の息子がいて、その息子と嫌いあっていて、父親が出て行ってしまっている女性弁護士。
サムとの会話の中から、サムは、弁護士のようなかんぺきなことができない、自分はかんぺきにそれを行うことができない。なぜならかんぺきではないのだから。
自分を完璧と言っている弁護士さんは、ここでぶちまける。自分の何が完璧か。息子に憎まれ、私も憎み、夫は出ていき、それのどごが完璧なのか。
サムは、純粋に弁護士を抱きしめる。弁護士さんもサムも同じなんだ。
法廷では離れ離れになってしまったが、里親の近くにアパートを借りる。仕事もする。里親は最初、ルーシーの為にならないと猛反発をするが、ルーシーがことあるごとにサムの家に行くこと。ルーシーの父親は、やはり、サムなのだと。
サムは純粋に里親と話す。ルーシーには、母親がひつようなんだ絵の中の赤はあなたなんだ。なぜならあの絵の赤はあなただから。
やはり避けておくべきだったのか、この作品を見て、サムを自分に感化させてしまう。俺は父親になっているか?夫になっているか?かんぺきではない、ココロの病気の俺にそれはつとまるのか、オレハヒツヨウデハナイノカ。
でも、最後のシーン。ルーシーが出るサッカーの試合。審判はサム。サムの純粋なココロは、被っている仮面を簡単にはがしてしまう。俺は妻を、息子を愛しているのだと。
なぜなら、俺は妻と子を愛しているから。
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