シュレディンガーの猫という実験の話をご存知でしょうか(詳しくはこちら)。とある科学のなんたらでも出てきますとてうアニメでも出てきます。
結構酷い実験なのですが、簡単に言うと、猫(チュシャ猫)が実験対象で、ある条件が揃うと猫は死ぬ。揃わなければ死なない。
この実験には様々な主張や解釈がありますが、結論を言ってしまえば、その過程を見ることが出来れば、確率論として証明も説明も出来るが、その実験対象自体を箱に隠してしまったらどうなるか。
統計的にラジウムがα線を出す確率が50%とすれば、猫が生きている確率は50%、死んでいる確率も50%なんですが、箱で隠されているため、実際猫が死んでいるか生きているか分からない。正反対の確率が混同してしまっている状態を指すもので。要は、蓋を開けてみないと結果(事実)が分からない事を差すんですね。
これはサイコロやパチンコなどとは全く違います。サイコロの1が出る確率は1/6。ただ6回振れば1が出るとは限らず、同条件で、膨大な回数を振って限りなく1/6に近い確率というのが正解です。ですが、そのもの自体の確率は1/6なんですね。機械であってもその確率自体は変わりません。
ですが、このシュレディンガーの猫の実験では、混同した確率が存在する。つまり確率自体があやふやな状態になっているもので、これは気付かなくとも結構存在するんです。
例えばインターネット。ツイッターやらフェイスブックその他SNSで登場する人物。プロフィールなどもありますが、実際その通りか?というと確かめる術は実際に会ってみて初めて結果が出る訳で。
ネカマなんて存在するように、ウソの情報で塗り固めれば、ネット上では女性ということになります。年齢もそうですし、顔出ししている方にも同じことが言える。つまりはその人をネット上で判別するのは不可能。ということになります。
例えフェイスブックのように実名といっても偽名を使われれば、それで確証は崩壊します。
確率があやふやな部分において、前記実験の事を書いたのですが。言い出せばキリがなく。
そんなパラドックスの中、 これまた厄介な情報というものが存在します。とある方が情報を出したとして、それが正しいのか間違っているか確率で言えば五分五分なのですが、正しい確率と間違っている確率が混同している状態。
まさにシュレディンガーの猫の状態な訳で、それの正誤はソースや根拠、データにより確証される。これが蓋を開けるというものであって、それでやっと正誤が分かる。と。そんな中で安易に情報を信頼したり、ウソと決め付けるのは結構危険なものと思っています。
これは人間関係、信頼関係においてもあると思います。自分の話した言葉が、相手に伝わっている確率は?そんなものは存在しませんね。個々により性格、思想、思うところも違いますので。
でもなんとか伝わって欲しい。1%でも伝わればそれでいい。その1%の積み重ねが信頼関係を築くものと思います。逆に、言ってる事に矛盾があれば、言ってる事違うじゃねーか。と。それは例え一言でも積み重ねた信頼をジェンガのように崩すこともあり。行動が伴うとなお更です。
ただ、それも人それぞれであって、 大目に見る人もいれば、これだけは許せない。という人もいれば、有無を言わさず。と許容の度合いも様々。かという自分ですら、根本はあっても線引きというのは難しいです。
また、人の多くは表と裏があって(これは過去の体験や事象とは関係ないので誤解のないよう)表ではいい顔してるけど、内心がどうかな。。。なんて腹の探りあいなんて多々あると思います。今の社会なんてそのまんまかと。疑いだしたらキリがない。
そんな社会なんて大きな事ではなく、自分は表裏を出来るだけ少なくしたい。そう思っています。完全に表だけにするのは不可能かと思いますが、仮面を外し、そのまんまの自分でいたい。そう思っています。
あやふやな確率の中、実際蓋を開けてみたら、ネットのまんまだね。なんて言われれば嬉しいことこの上なし。
結構酷い実験なのですが、簡単に言うと、猫(チュシャ猫)が実験対象で、ある条件が揃うと猫は死ぬ。揃わなければ死なない。
この実験には様々な主張や解釈がありますが、結論を言ってしまえば、その過程を見ることが出来れば、確率論として証明も説明も出来るが、その実験対象自体を箱に隠してしまったらどうなるか。
統計的にラジウムがα線を出す確率が50%とすれば、猫が生きている確率は50%、死んでいる確率も50%なんですが、箱で隠されているため、実際猫が死んでいるか生きているか分からない。正反対の確率が混同してしまっている状態を指すもので。要は、蓋を開けてみないと結果(事実)が分からない事を差すんですね。
これはサイコロやパチンコなどとは全く違います。サイコロの1が出る確率は1/6。ただ6回振れば1が出るとは限らず、同条件で、膨大な回数を振って限りなく1/6に近い確率というのが正解です。ですが、そのもの自体の確率は1/6なんですね。機械であってもその確率自体は変わりません。
ですが、このシュレディンガーの猫の実験では、混同した確率が存在する。つまり確率自体があやふやな状態になっているもので、これは気付かなくとも結構存在するんです。
例えばインターネット。ツイッターやらフェイスブックその他SNSで登場する人物。プロフィールなどもありますが、実際その通りか?というと確かめる術は実際に会ってみて初めて結果が出る訳で。
ネカマなんて存在するように、ウソの情報で塗り固めれば、ネット上では女性ということになります。年齢もそうですし、顔出ししている方にも同じことが言える。つまりはその人をネット上で判別するのは不可能。ということになります。
例えフェイスブックのように実名といっても偽名を使われれば、それで確証は崩壊します。
確率があやふやな部分において、前記実験の事を書いたのですが。言い出せばキリがなく。
そんなパラドックスの中、 これまた厄介な情報というものが存在します。とある方が情報を出したとして、それが正しいのか間違っているか確率で言えば五分五分なのですが、正しい確率と間違っている確率が混同している状態。
まさにシュレディンガーの猫の状態な訳で、それの正誤はソースや根拠、データにより確証される。これが蓋を開けるというものであって、それでやっと正誤が分かる。と。そんな中で安易に情報を信頼したり、ウソと決め付けるのは結構危険なものと思っています。
これは人間関係、信頼関係においてもあると思います。自分の話した言葉が、相手に伝わっている確率は?そんなものは存在しませんね。個々により性格、思想、思うところも違いますので。
でもなんとか伝わって欲しい。1%でも伝わればそれでいい。その1%の積み重ねが信頼関係を築くものと思います。逆に、言ってる事に矛盾があれば、言ってる事違うじゃねーか。と。それは例え一言でも積み重ねた信頼をジェンガのように崩すこともあり。行動が伴うとなお更です。
ただ、それも人それぞれであって、 大目に見る人もいれば、これだけは許せない。という人もいれば、有無を言わさず。と許容の度合いも様々。かという自分ですら、根本はあっても線引きというのは難しいです。
また、人の多くは表と裏があって(これは過去の体験や事象とは関係ないので誤解のないよう)表ではいい顔してるけど、内心がどうかな。。。なんて腹の探りあいなんて多々あると思います。今の社会なんてそのまんまかと。疑いだしたらキリがない。
そんな社会なんて大きな事ではなく、自分は表裏を出来るだけ少なくしたい。そう思っています。完全に表だけにするのは不可能かと思いますが、仮面を外し、そのまんまの自分でいたい。そう思っています。
あやふやな確率の中、実際蓋を開けてみたら、ネットのまんまだね。なんて言われれば嬉しいことこの上なし。
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