2009年7月18日土曜日

ヨハネの福音書1「ことばが人にある」

1-1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 旧約聖書での冒頭、神がことばとわざで万物を創造したといわれます。神が「光あれ」と発したのち1日目に光と闇ができた。で1週間でいろいろ作ったってものです。

 人間は6日目、最終日に他の生物達と創造され、そこで神は人間にのみ、他の被造物を支配せよ。という特権を与えられ、生物の王として存在してるわけです。

 ここで言うことばというのは何語かは分かりませんが神のことばとわざにより万物は作られ、神のことばにより人間は言葉を話せるようになった。ということなのでしょう。きっと。

 古来は人間は皆同じ言葉を話していた。が、有名な「バベルの塔」を建設しようとして、神の怒りを買い、言葉を分けられ、意思の疎通ができなくなり、世界各地に散らばっていったとなっています。

 つまりは、ことばは神であり神はことばである。神のことばにより万物が作られたってことですね。

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 ってことは今俺の話してる日本語ももともとは神のことばであって、昔の人がバベルの塔を作ろうとしたばっかりに日本語ってものが生まれたってことで、それがなければ全ての人と同じことばで話せたってことなのでしょうかね。

 でも、それが良いとは、あまり思わない気もします。言葉が分からないトコからコミニケーションを深めていくことは、最初から同じ言葉でコミニケーションをとるより、時間はかかると思いますが、理解しあえた時、同じ言葉より、深く理解しあえるのでは。という気がします。

 以前、手話で会話をしている人を見たというテキストを書きましたが、その人達は手話はもちろん、目、表情等を敏感にとらえ、把握していると思います。その分、他の人より、いわゆる「見る目がある」そんな気がします。

 ってかブッチャケーだのファ○クユーだのといろいろな言葉も新しく生まれてきていますが、それは神が創ったのではなく人間が作ったのかと。それすなわち、今は神のことばではなく、人間のことばであろうかと。でも人間のことばでも奇跡を起こせる。それはやはり神のことばだからなのかもしれない。わけわかんなくなってきた。