2011年6月6日月曜日

孤高に生きるということ

 俺は、自らの意思で命を落とすことに対して否定しない。

 地球で一番弱い生き物が、地球で唯一持っている権利。それを行うか行わないかは自分の判断によるものだと思う。

 毎年、何万人という人が、自らの意思で自らの命を捨てる。それぞれの理由で、それぞれが決めた事に対してなにを否定できよう。


 今、死ぬ理由がないから生きている。逆に言うと死ぬ理由があれば、別に死ぬ事に対してなんら抵抗はない。長生きをしたいとも思わない。長く生きることより、短くとも、深く、密度の濃い人生、悔いのない人生であるのなら、自ら命を落としたとしても悔いはないだろう。


 死んで、自我がなくなってしまえば、誰が悲しもうと関係ないのではないか。自分の意思で悔いの無い死を果たすことができるのなら、他の人の意思は全く無関係と言えるのではないか。人間、最後は孤独なのだから。


 人間、1人では生きていけないと、多くの人が言う。支えあい、助け合いながら生きていくものだと。ただ、その中には、助け合うこと、支えあうことを拒絶する人間もいる。孤独に生き、孤独に死ぬ。

 人との関係を遮断することは非常に難しい。寂しさに打ち勝ち、孤独にならなければどんな楽しい事があるのだろう。それを拒絶することは、ある意味、死を覚悟する事と同意だと思う。誰にもみとられず、ただ1人で。

 それも自分の決めた事。悔いが無ければそれでいいのではないか。やり残したことがあるのであるのであれば、それをやればいい。行きたい所に行き、やりたい事、やるべき事をやる。当たり前ではないか。


 漫画「孤高の人」が好きです。厳しい登山ではほとんどの人がパーティーを組、ザイルを結び合う。だが中には、ソロクライマー、自分の意思で、自分の思うとおりに険しい山を登る。大半の人が無謀だと言う。ほとんどの人がソロクライムを否定する。が、本人はそこで命を落としたとしても悔いは無いのだろう。

 人生は登山に例えやすい。孤独に生きる道を選ぶのなら、ソロクライマーとして山を登ることだ。

 「他人(自分)の命に干渉するな 俺はソロクライマーだ 君に(他人)に命を預けた覚えはない」

 「永遠に孤独である覚悟がないのなら 一人で山を登ってはならない(生きてはならない)」



 世界中の人が否定しようと、俺はその生き方、死に方を否定しない。悔いなく死んだのであれば、その人が死んだとしても、涙は出ないだろう、むしろ笑ってしまう。不謹慎と言われるのであれば、通夜や葬式には出ない。

 だから例え家族が死んだとしても、涙は出ないだろう。喪服すら着ないかもしれない。俺が死んでもそれでいいと思うのだから。




 ただ、心から、祈りはするだろう。笑いながら、ちょっと待ってろよ。俺もいずれだと思いながら。