2011年3月1日火曜日

無口

 無口な人間ほど

 頭の中じゃいろいろな言葉を発してる

 口に出さないと意味はないんだけど

 意義がないんじゃ寂しいな

もう1人の自分

 人間には2人の自分がいる。外と接するいわば社会的自分。あと、その自分を客観視している自分。いわば根本でもあり、絶対的でもある。

 社会的な自分。交流を求めたり、お腹がすいたらご飯を食べたり。いわゆる普通な人格。人それぞれ性格は異なると思うけど、仲間と喋ったりして楽しかったり、何かを失って悲しかったり。今、このテキストを書いているのも、外側の、社会的な自分なんだろう。

 ただ、社会的自分のとった行動、感情を冷静に、客観的に見ているもう1人の自分がいる。自分の生き方の核となるような存在。自分の周りで何が起ころうと冷静かつ沈着。自分以外の全員が死んだところでマユ1つ動かさない。それは、外の世界とは無縁な存在だから。自分のみに作用するものだから。

 そのもう1人の自分もやはり人それぞれであって、鋼のように強い意志、どんなに外の世界が変わっていても、自分の核の部分は変わらない人間もいる。逆に、自分の意思とは関係なく、いろいろな形となるもう1人の自分もいるのも確か。

 外側の、社会的自分と、核となるもう1人の自分は時によって、会話することがある。本当に今の生き方が正しいのか?時間とともに変化、成長、退化、消失する外側の自分は本当にあっているのか?

 前者のような、鋼の意思を持つもう1人の自分であれば、外の自分がどうなろうと、核の部分は変わらない。すなわち根本的な生き方の方向にブレはない。ただ、そのもう1人の自分は、その会話の中で答えを出すわけではない。判断し、行動するのは、外側の自分だからだ。

 ただ、外側の自分のココロがぶれた時、あるいわ勝手に、ほぼ強制的に自分の根本である生き方のベクトルを自分の核の思うままに直してしまう。そんな人間もいる。そんな人は外側で何が起ころうとも自分の本質を曲げることはない。良いように言えば意思が固い。悪く言えば固すぎる。もっとフランクに生きてもいいんじゃないかと思う時もある。だけど外から何を言われようとも、鋼である自分の根本は変わらない。


 逆に後者のようなもう1人の自分であると、核そのものに変化はない。だから根本的な生き方は変わらない。ただ、外側の自分のココロがぶれた時、前の核とは違う形を見せる時がある。

 時には聖者のように、今置かれている状況から一番ベターだと思われる方向を指し示すもう1人の自分もいるが、時には悪魔のようになり、魂と取引し、もう1人の自分のいいようにもっていく場合もある。そのような場合、良しきにつけ悪しきにつけ、外側の自分に作用してしまう場合がある。病は気から。なんて言葉があるように、その悪魔の作用で無理だと思っていた病気が奇跡的に治ったり、逆に悪くなったり。医者や治療もあるが、そもそも体に回復も悪化も影響があるのは自分であることだからだ。

 回復と思っていた自分が突然急変し、死んでしまうこともある。それはもう1人の自分の時もあれば、神の気まぐれな時もあると思う。


 それを踏まえて、外側の自分が客観的となり、もう1人の自分が、今、どんな形をしているか考えてみる。俺の核であるもう1人の自分は後者の方だ。今は違うかもしれないけど、ちょっと前までのもう1人の自分は死神だったんじゃないかと思う。

 外の世界で何かがある度にもう1人の自分が頭の中で囁く。”もう死んじまえよ”、”死ねば楽になるぜ”、”周りの迷惑考えてみろよ。お前が死ぬことが皆に迷惑もかけない。その時は悲しまれるかもしれないけどお前には関係ないじゃん。”、”保険金とか考えてみろよお前が死ねば他の人は困らなくて済むんだぜ”

 それがご迷惑にも外側の、社会的自分に作用してしまう。だから死にたくなったり、死ぬ為の手段を考えたり。生死に関して重く感じなかったり。自分を壊そうとしてみたり。その時仲間が助けてくれたり、なんとか自分で我慢してみたり。結果生きてる事には違いはないが核である俺の中のもう1人の死神な自分は変わらない訳で。根本がそうである以上、それが一番ベターの方向だと考えてしまう。もう1人の自分は絶対的なものだから。


 でも逆に後者の場合、外側の作用で核の性質は変わらずとも、形に変化が起きる場合もある。自分のことより、他人の事が心配になにったり、手間をかけたり。今が楽しければいいじゃんみたいに楽観的に考えてみたり。寂しくて、人とのコミニケーションを求めてみたり、逆に1人でいたいと思ったり。良く言えばフランク。悪く言えば無計画、考えがころころ変わる。


 どちらにせよ、もう1人の自分の根本、性質は変わらない。それが個性となる。どんな時も流されないオリジナルな自分。それは良い、悪いの問題でもないし、その性質が簡単に変わるわけではない。その性質、根本に基付きもその時、外側の自分が考え、判断し、行動する。


 それが正解だったのか、間違いだったのかは、結局のところ結果論でしかなく、それは良い悪いの問題じゃない。


 ただ、根本は変わらなくても、外側の自分はその結果について、反省なりもっと良い方法を模索する。いわば成長だったり、失敗でも自分の糧となる。