2010年11月24日水曜日

自分が死ぬことで解決するならよっぽど楽なこともある

 人は皆、いずれ死ぬ。これは超最高だろうが、マジ最悪だろうが変わらない。

 言葉は悪いかもしれないけど、死んでしまえば、良くも悪くも思い出となり、自分の記憶の一部として整理できるだろう。

 もしも俺がかわりに死ぬから助けてやってくれってのが通じる世界であれば、俺が身代わりになっても別にかまわない。でも、その本人は決して俺を許さないだろう。逆の立場だったら俺がそう思うから。

 誰でもそうだと思う。朝から落ち着かない。何をしていても頭のどこかに”ソレ”が漂っていて、手が震える。自分を壊したくなる。

 でもそんなことは望んではいないだろうから、平静に。なんでもいいから気を紛らわして。

 顔見せてあげなよ。そう言う人もいると思う。でも、俺にとっては不安が増すばかりだし、それを見ている方も心配になる。

 俺が出来ること

 ウソでも無理でもいいから元気な声で喋ることと、ただ、祈ることぐらいだろう。

 それで俺が帰ってきたら言うんだろうな。


 「あぁ俺が帰ってくるから今日はスキヤキにでもしようかねぇ」

祈り

 皆さん、多分だと思いますが、お守りの1つは持っていると思います。交通安全、無病息災、そーゆー具体的な物でもなく、いわゆる魔除け的な物を持っていることも多いと思います。

 俺も、信じる信じないは別として周りを見るとお守り的な物があります。1つは水晶の球。水晶は霊的な力があるなんてよく言われていて、占いとかでも使われますが、俺がいくらその水晶球を覗き込んでも特段なにかが見えたり、不思議に発光することもありません。

 あと、友人に中国の旧正月に書いてもらった福の字と、正月に書くという言葉。左を見ると魔除けの効果があるという天然石、いわゆるお守り。

 財布の中にもカード程度の大きさのお守り的な物を入れてます。

 それらを持っていても、確実にこうなる!ってならない場合、「ほんと、お願いします!」なんて願ったり祈ったりするし、そのお守りの効果なんていうのは目に見えるものではないので、なんていうか、心のちっちゃな安心を持ってるような感じだと思います。

 それでも前に書いた通り、いざ、スロなんてやってる俺はしょっちゅうですが、どうか1つ!なんてお願いするんですが、相手は確率に支配されている機械なんですけどね。もう必死になることもありますよ。

 それは置いといて、お守りや神社、お寺などに願掛けをすることってあるじゃないですか。自分の願いを込めて。

 これからは俺の考えなんですが、その願い、祈りもそれで何かが起こるってわけではなく、それをすることによって少しでも自分の心の安らぎを求めているんじゃないかと。

 だったら、別に般若心経を丸暗記する必要もお賽銭に多額の銭を入れる必要もなく、その願い、祈りが強いのであれば、それが心の安らぎ、もしかすると、それでおし!やるぞとなって願いがかなうことも。

 それは神様でもお守りでもなく自分の力で、なんとかしたものではないかと。その間、なにかしらのトラブルがなかった。ようは「運」に左右されることがなかった、もしくはスムースに行ったとなれば、あぁあの時祈ったからだと。

 でもそれはあくまで結果論であって、前途多難な時だってあるわけで、その時、ちっ!神様なんかいねぇなんて思ったりすることも。

 その祈りの対象がアラーだったり、キリストだったりする単一神。その時その時に違うもの、人だったり、自分だったり。

 それでもいくらそれを祈っても、それ以降起きたことは全て結果論であって、祈りによる自己安堵だったり、支えだったり、安らぎだったりすると思います。

 世界を見れば、13歳で銃を握り兵士として生活している子供。クスリや食料が足りなくて、毎日多くの小さな命が失われていくこと。人を殺す為の道具で人を殺している人達。俺がどんなに祈ったところで解決しないものは多くあると思います。

 それでも俺は祈りたい。そんな世界規模じゃなくても、自分の目で見える範囲でどうすることもできない状況になった時、強く祈りたい。

 それは、神様とかに助けを求めるのではなく、その祈りが俺の安らぎとなり支えとなるからに他ならずです。