2011年9月14日水曜日

二の舞

 同じテツは踏まない。など同じあやまちを繰り返さない言葉はいろいろあると思います。

 人間誰でもミスはする。そのミスはなにか。それはミスではなく、決断し、行動した結果かもしれない。それはらは原因を考えなければ、はっきりと反省する事、繰り返さない事は難しいと思います。


 決断し行動した結果として、裏目に出たことを「ミス」と捉えていいのか。その決断をする前に「ミス」は無かったのか。そもそも「ミス」って何?


 1+1=1

 と本当は2だと分かっていても書いてしまう。間違い。これはミス。確認不足。一般的常識を逸した行動。これらもミスと言えるだろう。行動そのものがミス。


 リスク管理の中で、リターンとしてマイナスの結果になってしまった。結果としてはミスであるが、問題なのはマイナスになった結果ではなく、そのリスク管理にあるのではないか。


 何故、マイナスになってしまった?どこが?リスク管理に漏れがあるとするのなら、そのリスクに対する知識不足となる。それを補えばプラスになっていたのか?結果としてまたマイナスになるかも知れないが、これは過程としては、同じテツではない。まだ足りなかったという結論となるのかもしれない。


 感情論となると、もっと複雑になる。人々はそれぞれの考え、思いを持ち、正解でもあり不正解でもあるのだから。


 正解、不正解の無い、思想的な部分になると、ミスという概念が崩れ始める。誰もが怒らせたくて何かを言う訳ではなく、なにかに引っかかった部分があるから、そこで感情が生まれるのだろう。


 じゃあ黙っているのが正解なのか?と問われるとそれも違うと思う。楽には違いないが、そこに自我、自分という物はなくなってしまう。そこにも正解、不正解はない。


 言葉は時として簡単に人を殺す。だから話す時も言葉を選ぶ。話さない。という選択肢もある。でも結果として選んだ言葉が明らかに間違っていた。それを自覚できたのなら、そこに反省が生まれる。それはその単語だけではない。あらゆる言葉においてその自覚は活きてくる。

 それが完全に出来るか?と言われると補償は出来ないが、それで消極的になるのではなく、反省し、身に付けた事がある。それを活かせばいい。


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 同じ二の舞にももう1つあって、誰かが体験したこと、その経緯、結果を知り、別の人が、そうならないよう知識として持ち、助言する。これは自分の欲求からくるものであるから、受け止め方は人それぞれとなってしまうからまた難しいが。


 人はそれぞれがそれぞれの生き方をしてきたから、同じ助言をしても、時として結果が違う場合がある。理屈で言える物であるのなら、誰に言っても同じになるだろうが、感情となると全く別の問題となって。それを黙って見過ごすか。二の舞になって欲しくないよう何かを言うか。

 これも、千差万別であるのなら千差万別の言葉の選び方となる。難しいことだ。時には傷つけてしまうこともあるかもしれない。良かれと思っても。


 でも、それを繰り返す。人と接するというのはその繰り返しではないかとも思う。反省と選択と判断の繰り返しで、深くもなり浅くもなる。


 深さ、浅さ、時には一発でダメになってしまうかもしれない。でもそれも結果にすぎず、その結果を活かすも殺すも自分次第。自分があって、人がいて、人があって自分がある。なんか禅問答のようにになってしまった。死ぬまで考えるテーマなのかもしれない。と思います。