2013年2月16日土曜日

100%というものがあるのならそれは死だけだろう

 別に神様がどうのとか、命を大切にとかそんな事書くつもりはさらさら無く。

 神様がいようがいまいが、もし神様がいたとしても、男女問わず、人類、いや生物皆平等なもの。って言ったら「死」ぐらいんかじゃないかと。

 生物によっても人間によっても、死ってのは確実にやってきて、それが早いか遅いかの違いなだけ。人間という個体に捉えてもそう言えると思います。


 家風といったら語弊があるかもしれませんが、自分の幼い頃から死というものを自然のものと捉えていた風があります。


 おばあちゃんを自分は知らないのですが、おじいちゃん、叔父が亡くなった時(子供心に)一報を受けた時はショックを隠しきれないようでしたが、冷静な感じというか、受け入れてるという感じがして。


 で、今になって昨今、両親が手術やら入退院を繰り返していたわけなのですが、当然、心配です。でもそれはこれも語弊が生まれるかもしれませんが、生きて欲しいというより、死ぬのを遅らせて欲しいというのが思いの中にあって。

 どんなにあがいたところで、死ぬ時は死ぬ。これは家族共通(違うかもしれませんが)な雰囲気があったのが印象にあります。母がやばかった時、延命措置をしますか?みたいな質問を”しない”と書いた事に誰も反対しなかったし。


 死は自然のもの。という認識。それは病気でも、偶然という名の事故でも、自然な死であれば受け入れる。逆に、自然ではないもの。戦争や争いによる死などそう言ったものに罪?咎?業?そんな風に考えます。


 食べる事、身を守る事以外で、殺したり殺されたり死んだりするのは人間だけ。何故?と神様がいるんだったら問いたい所ではありますが、そんな答えを聖書や仏典などに求めようとも思いませんが。何故でしょうね。


 知恵というものをもらった代償なのか。そんなものは自分が生まれたころ?ブラックジャックが全てを語っています。

 代償。という意味の中には他の生物にはない特権という意味も含まれていて。なので自分は自殺というものを否定しないんです。賛同も推奨もしませんが。


 ただ、ネットの普及により、掲示板等で「死にたい」というのをよく目にします。彼氏、彼女にふられた。就職に失敗したとか理由はそれぞれ。その死ぬ理由に対してとやかく言うのではなく。

 「死にたい」「死にたい」言うんだったら、とやかく言わずに死ね。と。逆にそんな願望を書き込む余裕があるんだったら、まだ理性がある。もしくは死ぬというものがよく分かってないんじゃないかって思うんです。


 手首を切っても死にません。首の動脈も首の筋肉で守られてます。鉈か鋸で、ガツンとやる、ナイフで喉をズッパリやる度胸、ありますか?


 薬を飲んでもよほどじゃないと死にません。ドンブリいっぱいの薬と度の高いお酒。見てサイケデリックな気分になって終わりでしょ?仮にやったとしても、後で地獄のような胃洗浄が待ってるでしょう。

 ビルの屋上でヤーとダイブする度胸、ガソリンかぶって火付けるガッツ。もうなんでもいいんですが、それこそ一世一代の覚悟、それすらもどうでもいいぶち壊れた衝動を覚えた事はありますか?


 あるんだったら何も言わないでしょ。言う必要なんて無いんだから。



 手首を切る。OD、いわゆる自傷。これは死の真似事。もしくは痛みで生きてる実感味わって、生きてるストレスの解消ぐらいにしかならず。これは反対です。大切な人の為、産んでくれた母の為。実際してた俺はもうしないと約束した。


 死ぬ理由が無いから生きてる。それで十分ではないかと思います。仲間が言ってくれた「生きてりゃなんとかなる」名言だと思います。




 今、自分には生きる理由が出来た。 死んでたらそんな事は起こり得ない。だから死ぬまで生きたいと思います。