2011年7月29日金曜日

パンクな生き方に限界はあるのか?

パンクやロックの定義なんて人それぞれだし、物差しで計れるわけでもねーから俺の思うパンクがパンクであって、誰にもそれを変えることはできない。


今の俺は1人であっても孤独じゃない。本音を話せる友人がいる。偶然でもなんでもありがたいことだ。


その友人が過去に何をしてたかなんてどうでもいいんだ。栄光、挫折、成功、失敗、シャブってようがしゃぶってようがどうでもいいんだ。


俺は今の君を見て、友人だと思ってるんだ。だから過去なんてどうでもいいんだ。

過去の出来事なんてのは、君のスタンスやスタイルや生き方を作ったものであって、俺にとっては参考資料。



愛は心の痛みを和らげるらしい。愛を知っている人よ、それを忘れないで。大事にして。

愛と苦悩はセットだから、時には苦しむこともある。でも苦しむことより大切なんだ。だから大事にして。心の痛みを和らげて。



流れに任せて生きることは確かに楽だ。苦労してまで逆行することはない。

でも鮭は川をさかのぼる、ボロボロになっても、濁流で、時には押し流されても。


そこまでする必要があるの?でもそれが鮭の生き方なんだろう。

ボロボロの痛みの中、命をかけて、さかのぼって、さかのぼって、卵を産んで、そして死ぬ。



それに意義があるんだったら、流れを逆行することに命をかける意義も価値もある。


でも現実は甘くない。激痛に耐えかねる時もある。自分はおかしいんじゃないかと思う時もある。リアルという限界に負けそうになる。でも、でも



それが痛みとなっても、途中でくたばったとしても、ボロボロになりながら、さかのぼって行って生きたい。


誰の為でもないよ。自分の為に。

ソロプレイ

 団体行動は苦手です。子供のころからずっと。

 なんか皆と同じ行動をとるのがイヤな性格らしく、流行の雑誌も見ないし、自分で良いと思った服を着たり、音楽を選んだり。そんな生き方をしていたんですが、最近ますます拍車がかかってきました。


 先月の事件だったり、会社の無関心っぷりだったり、デタラメや誇張、誤魔化し、隠蔽、情報操作。。。そんなんで人自体を信じられない、いわゆる人間不信とともに対人恐怖的感覚になりつつあります。


 全てシャットアウトすれば、楽なのかもしれません。でもそれって皆と同じじゃんという性格のもといろいろやってきたのが裏目に出たのか、会社の体制や不信に対して物を言う苦労がダメージとなったのか、両方なのか。


 今やチャットでも緊張してしまう俺。天上で言えば討伐に誘われてメチャクチャ無力で迷惑かけたなーという凹みにも似た、前はじゃあ強くなって自分が引っ張れるぐらいになろう!なんて思えたのですが、今は無理。。。


 なんか1人が楽だなーって。別に孤独になって、誰とも接することなく生きるって訳でもなく、そんなことは実際不可能。なんつーか、今は、1人にしていて。。。っていうのが本音です。



 それとは逆に、ミクシとかツイッターとかは、いわば会話として成立したとしても上っ面なので楽。別に攻撃されようと、別にダメージとして出るわけでもないので、余裕があればツイッターとかで毒を吐いているって感じです。


 それはともかくとして、主治医まで信頼できなくなったら困ってしまうので相談しようと思っています。あとは時間薬。少し、頂戴。