2012年9月17日月曜日

我思う、故に我有 貴方思う、故に貴方有

自己中心で何が悪い?

自分で考えて、選択して、行動する。人が生きていく上で単純かつ明快。皆、そうやって生きていく。その中では、ある意味世界の真ん中にいると言ってもいいと思う。

感じたもの、好きなもの、過去の苦痛、幸せ。これらがいろいろ混ざり合って次の選択肢が生まれる。何も悪いことではないと思う。


でも、大前提として、人は1人じゃ生きていけない。それが入ると、最小単位でも1人は自分にとっていわゆる他の人間が出てくる。世界の真ん中の人間がもう1人出てくる。


好き?嫌い?合う?合わない?

どのみち接点が無ければそんな感情は生まれてこない。その上で、また考え、選択し、行動する。


これは相手にとっても同じじゃないか。その考え、判断、行動を100%理解するのは不可能であって。でも、何故そのような行動に出たか、何故そのような判断に至ったか、何故そのように考えたのか。それを考える。

それが相手の気持ちを思う事ではないか。


それが真実じゃないかもしれない。もしくは的を得ているかもしれない。どちらにしてもそこに接点がなければ、伝わらないし、伝わってこない。


1%でも、伝えること、伝わるものがあるのは、有意義なことだと思う。それには少なくとも理解しようとする努力が必要だ。


別に難しい話じゃない。理解しようとすれば耳が傾く。理解するまで聞けばいい。伝えたい事が伝わらない。いわゆる誤解。それで諦める事もあれば、1%の理解を期待して話す。聞く。


それで最終的に割り切りだったり、もっと深い仲になったりするのは、いわば結果論。別に割り切りが悪いわけじゃない。割り切った仲でも深い場合がある。


割り切りなしで、言いたい事言って、理解できて、伝わるのであればそれはこの上ない存在。

より深く、深く。


それだって、言いたくない事、聞きたくないことはある。ならそう言えばいい。別に友好は野次馬じゃない。


過去に何があろうと、生きてるのは今で、その今の友好が深ければそれでいいんじゃないか。


自分はどうでもいいという思考になるのは自分の悪いトコでも良いトコでもあると思う。世界の中心から、自分を突き放す。


迷惑かけたくない。と思う。迷惑かけたくないと思われる。悪いことじゃない。水くせぇと思うこともあるし、感謝の気持ちにもなる。そう思えること。



それは広いんじゃなく、深いんだと思う。



逆に自分の考え、判断、行動に、他の人が介入する場合もある。助言、怒り。激励。言葉はなんでもいい。

ただ、自分がこう思うから、貴方もそうする。その中で、やはり貴方にも自分の世界を持ってほしい。その背中は支えてあげるから。


貴方が世界の中心に生きられるように。