2011年8月27日土曜日

生きる理由

 人間誰でも生を受け、生きて、いずれ死ぬ。この理は抗うこともできない。その中でやはり人間、なんで生きてるの?という疑問にもにた物は常に現れる。


 生きるためには、生きるだけの理由がある。その考えは人それぞれだから、どんな理由でも否定はしないし誰にもではないと思います。死ぬ理由がないから生きている。それも生きる理由になるのではないかと。


 今、日本中で騒がれている放射能の問題。食べ物、地域、その他いろいろなところに波及している。その中で自分はどう生きていくか。


 外国に避難する人、国内でも西に避難する人、危険と思う物は食べない人、それも自分にとって生きる理由になると思います。死にたくない理由。ともいえると思いますが。


 逆に今ある危険を受け入れる人、その地から避難しない人、避難したくても出来ない人に、自分の生活を少し犠牲にし、なんらかの助力をする人。生活レベルは多少下がっても、別に良いと生きる人。それも生きる理由になると思います。


 そこには、正しいも悪いも差別もなにもなく、自分の生き方の問題であり、それは自分自身で決めることであり、誰にも何も言える筋合いはないのではないかと。それぞれがそれぞれの生きる理由で生きているのだから。


 人間、誰だって、どんな大切な人だって、何時死ぬのかなんて分からない。だからリスクを少しでも回避するのも1つの手だと思う。逆に何時死ぬか分からないんだから、別にそのままでいい。それも1つの手だと思います。


 極論を言えば、どんなにリスクを回避したとしても、明日なにかしらで死ぬかもしれない。そんな事は誰もが思うところであるのではないか。


 なら、生きている今を楽しむ。それもいいんじゃないかと。




 そんな風に考えると出てくる歌

 「トレイン・トレイン」 「チェインギャング」 「チューインガムを噛みながら」

 我ながら、ブルーハーツ世代だと思う。でも、やはり共感してしまう。