2013年2月28日木曜日

クソッタレのアマッタレ

 当然自分も入ります。じゃなきゃ到底生きていくバイタリティがないから。


 デモ。前から脱原発デモの言う名の祭りを毎週やってるってのは知ってますが、最近では反中、反韓デモというインネンじみた練り歩きが多々あるとか。

 前者を何故祭りと書くか?デモ来るのに電車乗って、その後飲み会もしくは合コンみたいになっちゃって。電気バリバリ使ってるじゃん!と同時になら代替案を提示しろよ。と。それも無いのに反対!反対!では子供の駄々よりタチ悪いです。

 すなわち大声で騒いでも伝わってない。雑音。でもやってる皆は楽しい=祭りになってしまうわけで。伝わってないってのが言えるりは、前の衆議院選挙で結果出てますから。


 それで後者の反中、反韓運動。まぁ竹島だったり、尖閣だったり、問題はあります。また中国で反日デモで事件が起きたりもしています。


 殴られた。胸ぐらつかまれた。で、黙ったり、スミマセンなんてビビルつもりは毛頭無く、それ相応に個々思う所はあると思います。国もそれなりに動いていると思います。


 が、街で目につく、別に直接見た訳ではないのですが、プラカードに「韓国人は皆出てけ!」とか「韓国人は全員○ね!!」的な文章を見ていると、それってユダヤ人を根絶やしにしようとしたナチズムと同じベクトルなんじゃね?なんて思うんです。なに?民族統一主義?


 それを悪と決め付けるのは、いや悪の部類かもしれないな。。。民族間の争いは調べれば世界中で起きていて、時々ニュースでもやっています。

 日本は平和だから、プラカードですむかも知れませんが、あっちはマシンガンです。ただ違いはそれなだけ。日本は、平和だから。


 世界高水準と言っていいぐらいの治安と法律と権利に守られて、それでもまだクソッタレの世界、生きにくい社会だと文句を言う人々。向こうじゃそれがデッド オア アライブ。相当違うと思います。

 自分は本気だと思っていても、いざとなったら的アマッタレ精神。どこかにあるんじゃないでしょうか。

 そんな大それた事より明日のモヤシの値段。それもアリだと思いますがやはり日本の未来って思うところじゃないですか。


 まだ震災の傷癒えず、復興も道半ばの中、どれを最優先とするべきか。命。自分も他人も。と思います。



 クソッタレと叫ぶアマッタレちゃん。日本にも甘えられない状況の人が多くいることを忘れずに。そしてできればピースでいきたい未来。

2013年2月16日土曜日

100%というものがあるのならそれは死だけだろう

 別に神様がどうのとか、命を大切にとかそんな事書くつもりはさらさら無く。

 神様がいようがいまいが、もし神様がいたとしても、男女問わず、人類、いや生物皆平等なもの。って言ったら「死」ぐらいんかじゃないかと。

 生物によっても人間によっても、死ってのは確実にやってきて、それが早いか遅いかの違いなだけ。人間という個体に捉えてもそう言えると思います。


 家風といったら語弊があるかもしれませんが、自分の幼い頃から死というものを自然のものと捉えていた風があります。


 おばあちゃんを自分は知らないのですが、おじいちゃん、叔父が亡くなった時(子供心に)一報を受けた時はショックを隠しきれないようでしたが、冷静な感じというか、受け入れてるという感じがして。


 で、今になって昨今、両親が手術やら入退院を繰り返していたわけなのですが、当然、心配です。でもそれはこれも語弊が生まれるかもしれませんが、生きて欲しいというより、死ぬのを遅らせて欲しいというのが思いの中にあって。

 どんなにあがいたところで、死ぬ時は死ぬ。これは家族共通(違うかもしれませんが)な雰囲気があったのが印象にあります。母がやばかった時、延命措置をしますか?みたいな質問を”しない”と書いた事に誰も反対しなかったし。


 死は自然のもの。という認識。それは病気でも、偶然という名の事故でも、自然な死であれば受け入れる。逆に、自然ではないもの。戦争や争いによる死などそう言ったものに罪?咎?業?そんな風に考えます。


 食べる事、身を守る事以外で、殺したり殺されたり死んだりするのは人間だけ。何故?と神様がいるんだったら問いたい所ではありますが、そんな答えを聖書や仏典などに求めようとも思いませんが。何故でしょうね。


 知恵というものをもらった代償なのか。そんなものは自分が生まれたころ?ブラックジャックが全てを語っています。

 代償。という意味の中には他の生物にはない特権という意味も含まれていて。なので自分は自殺というものを否定しないんです。賛同も推奨もしませんが。


 ただ、ネットの普及により、掲示板等で「死にたい」というのをよく目にします。彼氏、彼女にふられた。就職に失敗したとか理由はそれぞれ。その死ぬ理由に対してとやかく言うのではなく。

 「死にたい」「死にたい」言うんだったら、とやかく言わずに死ね。と。逆にそんな願望を書き込む余裕があるんだったら、まだ理性がある。もしくは死ぬというものがよく分かってないんじゃないかって思うんです。


 手首を切っても死にません。首の動脈も首の筋肉で守られてます。鉈か鋸で、ガツンとやる、ナイフで喉をズッパリやる度胸、ありますか?


 薬を飲んでもよほどじゃないと死にません。ドンブリいっぱいの薬と度の高いお酒。見てサイケデリックな気分になって終わりでしょ?仮にやったとしても、後で地獄のような胃洗浄が待ってるでしょう。

 ビルの屋上でヤーとダイブする度胸、ガソリンかぶって火付けるガッツ。もうなんでもいいんですが、それこそ一世一代の覚悟、それすらもどうでもいいぶち壊れた衝動を覚えた事はありますか?


 あるんだったら何も言わないでしょ。言う必要なんて無いんだから。



 手首を切る。OD、いわゆる自傷。これは死の真似事。もしくは痛みで生きてる実感味わって、生きてるストレスの解消ぐらいにしかならず。これは反対です。大切な人の為、産んでくれた母の為。実際してた俺はもうしないと約束した。


 死ぬ理由が無いから生きてる。それで十分ではないかと思います。仲間が言ってくれた「生きてりゃなんとかなる」名言だと思います。




 今、自分には生きる理由が出来た。 死んでたらそんな事は起こり得ない。だから死ぬまで生きたいと思います。

2013年2月9日土曜日

病院巡礼

 障害者年金の申請資料として、初診証明、受診証明を書いてもらう為、あちこちの病院にいったのですが。

 1つは立川市内。もう1つもさほど遠くないので、確か水曜日だったかな。雪が雨になってすごい寒かった記憶があります。


 その証明書を書く。という行為は病院側とすれば書きません。とか拒否できないので手続きはスムースにいったのですが、懸念事項があったので変なお願いをしました。


 ひとつは、申請書待ちでヤキモキするのも嫌なので、リードタイム、つまり締め切りをお願いしたこと。両病院とみにカルテが残っていたので、書こうと思えば書ける。ただ、何時書く?という懸念を払拭する為で。2週間あれば書けるでしょ。と2/19までに書いてもらう確約を得ました。


 もうひとつ。証明書を書く際、必ず今、自分が診察してもらってる主治医に連絡を入れる事。です。これは誤解が生まれるかもしれませんが。

 別につじつまを合わせろ。とか、事がスムースに行くように。とかそういう意思ではなく、証明書を書くドクターを自分は全く信用してないからで。


 証明書は、カルテが残っていればそれを元にして書くのですが、その書いたカルテすら信用できず。簡単に言えば、ドクターは自分の都合の良い事はカルテにも書くと思いますが、自分にとって都合の悪い事は例えカルテであっても書かない。んじゃないかと。


 初診から終診までの経緯を書くのですが、まさか


 リスカするような人間は診断出来ないと、診察を拒否した為転院


 なんて書かないでしょう。間違いなく。

 その日、診察を拒否にれたんで、その前の診察状況になると思います。実はその前日、カウンセリングにて、リスカが止められない。と相談し、カウンセラーの手に負えず、当直のドクターに診察してもらったのですが、それすらもカルテに書いたか怪しいと。つまりはその病院自体信用してないんです。

 そんなドクターが両方の病院の証明書を書く。というのは、自分にとっては疑心暗鬼モードですよ。なので、今の主治医に連絡をしてくれと。申請用の診断書を書くのはあくまで今の主治医ですから。


 このこと、両方の病院でハッキリ言いました。こんな事。




 患者より、病院の看板大事にするドクターなんて信用できる訳ないじゃないですか。そしてその病院も。



 もちろん、両方とも困った顔してました。でも信用出来ないんだから。見なくていい闇見せてくれたんだから。

 ともかく、そんな行きたくもない病院に行って、疲労困憊でございました。精神的に。




 っつかあんな紙切れ1枚に4,000円て。。。かける2病院。+交通費。そんで本書の診断書代。。結構痛いよ。。。アニ。