2012年5月21日月曜日

アリとキリギリス

 1つの物の例えと捉えて頂ければ幸いです。

 童話「アリとキリギリス」という物語は、まぁ誰もが知っているものだと思います。夏ば、音楽ばかりを奏でていたキリギリス。その間、冬に備え、餌を蓄えてたアリ。

 冬になって、キリギリスは寒い思いをしながら、アリの所に行き、餌を貰おうとした所、貴方は夏場、奏でてばかりで蓄えもしなかった。それでここにきてもらおうとは文字通り虫が良すぎる。なんて言われ、夏場遊んでいたばかりの自分を後悔する。なんて物語だったと思います。

 いわば「備えあれば憂いなし」というものを物語りにしたようなもんなのですが、果たしてここに善悪はあるのか?と疑問に思ったりもします。


 先日、友人と話しをしました。真面目な話し。自分の弱い部分を言ってくれる、言える友人は、非常にありがたい存在だと思います。

  それぞれが、それぞれの生き方を持つように、話し合いの中でも納得する部分もあれば、それは自分の考えとは違う。と思う時もあり、ただ、その違うと思うことも頭の隅に入れておけば、いつかどこかで役に立つとも思うし、どうしても無理であればしなれければいいことだと思います。

  それは自分の中での違うであって、反対している訳でもなく。それこそ個々の考え方、スタンスによるものと思いますのでどちらが正しいか。なんてのは存在しないわけで。


 そこで、その話を思い返したところ、上の物語が思い浮かんできて。あー自分はどちらかっていえば、キリギリスの部類に入るなぁ。と。

 まず、今が楽しければいい。これが基本。楽しいと思う手法はなんでも。スロットでも、ゲームでも、こうやってテキストを書くのも自分にとって「楽しみ」の一つ。それが続けば毎日がハッピー。なんて考え方。


 でも、生きていくには金がいる。スロットで何万も負けてお金がない。生活費まで手を付けようなんて暴走は無くなった訳ですが。それをしなければ、お金はかからない。別の方に目を向ければ楽しみなんてのは他にもあるわけで。

 それがゲームだったり、キーを削ることだったり、ツイッターだったり。と。それをして楽しいと思えさえすればいいわけで。


 ここからはちと病的思想になるかもしれませんが、じゃあ死ぬまでその思想でいれば、自分が不幸だなんて思わないで済むんじゃね?と。これが楽観的すぎる思想なのかもしれません。

 逆に言えば、全ての楽しみが奪われたら死ねばいい。的思想とも言えなくもないのですが、自ら命を落とすことは考えてなく。イレギュラーが無ければ何年後、何十年後の未来が待っているわけで。

 それでずっとキリギリスでいられるか?そうでありたいと言う願望と、それは難しいと思う憂い。そこに矛盾がある。そうなると、一番怖いのは長生きする事だったり。


 どれが最高に楽しいのか。で分かれるとも思います。 それは人それぞれ。デカイ目標であれば、アリのようその時の楽しみを我慢(犠牲でもいい)しなくてはならない。小さい物で満足するのであれば、それだけ我慢するものは少なくて済む。

 ただし、フルオープンで生きていけるほど甘くはない。なんらかの自制は必要。ここが大切なことだと思います。

 また、フルクローズで生きていて、もしイレギュラー、または目標に達する前にいなくなってしまったら?どこかに些細でも楽しみを持つこと。これも大切だと思います。


 アリな人。キリギリスな人。元々カブトムシな人。いろいろいるとは思いますが、これは自分の考え。


 死ぬ時、楽しい思い出を胸に死ねれば、自分的には満足なんじゃないか。


 苦しい事も、辛い事も、楽しい事も、幸せな事も、晩年になれば全てが過去となる。その時、どれを持って逝くか。なんじゃないかなぁと。その為に、今をどう生きるかがあるんじゃないかなぁ。と。



 アリとキリギリスの物語りで、何が不満かというと、確かキリギリスは凍え死ぬと思いましたが、あの時、遊んでばかりさえいなければ。。。と後悔したことだと、自分的には思います。