2011年8月21日日曜日

人工知能。。。ねぇ

 最近、ツイッターを多いに活用しているんですが、別にテキストに飽きたっていう訳ではなく、140字程度のふとした思いは何時だって思うわけでそれを書く。ようは、長文、テキストにもなりえないからツイートという形にしているとも言えるのだと思う。

 ここは自称テキストサイト。思ったことを文字にするんですが、当然、読んでいただく事を前提にして書いているので、極力思いはそのままに、けど最低限のマナー、誤解を招くようなことのないよう言葉を選んでいたりもするのも確か。これだけでも140字を超えるからテキストとしてここに記すわけなんですが。


 そういう面では、その時、リアルタイムで思ったことを書くという事に関しては利点があり、それを読んだ人が何かを感じ、軽くではあるもののコミニケーションもとれたり。まぁ逆も然りなわけなんですが。


 皆が別々の思想を持っているから、人の書いたことに違和感を感じたり、時には嫌悪を感じたり。それは自分の書いたことも当然であり、ケース バイ ケースで返事をしたりスルーをしたり煽ってみたり。まぁ140字程度で全てが書けるようなもんだったら、この世界はどんだけチッポケよ?というのが率直な感想だったりするのですが。


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 話は変わり、日本で世界最高の演算速度を持つスーパーコンピューター「京」は有名なところですが、既に次の世代の研究は進まれていて、それはもはや人間の演算速度を超えるとまでいわれるほどらしいです。

 ってか、それだけ人間の演算速度はメチャクチャ速いわけで、一秒で何億もの神経や筋肉、血流、内臓等の指令を送っていて、その「京」でもかなわないほど、例えば今こうしてテキストを書いている。思考の中から、適切な言葉を選び、視神経を通してモニター、キーボードを見ながら、何千もの神経や筋肉を動かしてタイピングしている。

 そしてタイピングしている間、ようは作業中であっても次に書くことや、その外でも喉が渇いたとか、タバコ吸いたいとか、別のことをマルチに考えてる。確かにすげえ。脳。


 演算能力が人間を超えたからと言って、例えばそれを並列に配置し、人間の何倍もの演算能力を得たとして、果たして知能と呼べる代物になるのかどうか。

 例えば、今なんとなしに感じてる閉塞感。デカイ宇宙の、ちっちゃい地球の、さらに極小の島国の、片隅ともいえる場所の、更に片隅のマンションのそのうちの1つの部屋のさらに隅のパソコンの上に座っていて、そこでもなんとなく閉塞感を覚えたり。

 でも逆に考えれば、心は無から有を生み出し、想像すれば、一瞬でこんな狭い部屋の狭い地区の狭い島国のちっちゃい地球を包む宇宙より大きく、無限大とも言える考えを持つこともできる。


 そんな矛盾。安い物だが、どんな値段でも売れない物、軽くても重いもの、小さいけれど大きい物、そんな心の矛盾を果たして演算という形で処理できるのか。


 あらゆる歴史、文化、産業、世界中の情報を詰める込むだけ詰め込んで、今でいえばインターネットがそれにあたりますか。それらをデータベースとしてシュミレートし、判断を下すことは可能だと思う。51:49でこちらの方が良い。というような判断。

 でも、それってココロからすれば何かが違う。それが出来れば苦労はしないって訳で、やはり、人工知能、要は脳と同じ働きをさせるのは不可能ではないか。というのが結論なんですが。


 でも、大きな決断を迫られた時、人間は迷う。それは何人いようと同じであり、いろいろな意見をぶつけ、その中から最もベターな方策を打ち出す、多数派が思うことで決定する民主主義という思想であるならば、個人の勝手な思いつき的発言なんてのもなくなり、あらゆる分野をシュミレートし、最もベターな方策をデジタル的に打ち出すには、良いツールなのかもしれません。


 アニメ「エヴァンゲリオン」も3台のコンピューターで議論させている。とある~の学園都市もスリーダイアグラムという人工知能に似た物で統括していることを考えれば、別に極論でもないとは思います。そのコンピューターが出した答えに感情は無い。逆に感情という物をデータベースとすればそれをも演算した結果を出すと思います。


 その答えをどこから切っても、全てに根拠があり、まさにぐうの声も出ない解答を打ち出してくれる。政治とかで変にもめるんだったら、それを判断材料としても全く問題はないと率直に思う。


 ただ、これは政治的、民主的思想、多くの人がいる中であって初めて成立するものであって、1人で考える場合、そこに多数決もなにもないのだから、99:1の解答を出されても、1を選択することもあるんじゃないか。なんて思うので、やはりココロの構築は不可能と判断いたします。