2011年5月17日火曜日

世界のまん中

朝の光が 待てなくて
眠れない 夜もあった
朝の光が 待てなくて
間違った事もやった
僕の生まれた所が世界の片隅なのか
誰の上にだって お日様は昇るんだ


川の流れの 激しさに
足元がふるえている
燃える炎の 厳しさに
足元が震えている
僕が今見ているのが世界の片隅なのか
いくら探したって そんな所はない


うまくいかない時
死にたい時もある
世界のまん中で生きてくためには
生きるということに命をかけてみたい
歴史が始まる前
人はケダモノだった

少年の詩 -ザ・ブルーハーツ-

パパ ママ お早うございます 今日は何から始めよう
テーブルの上のミルクこぼしたら ママの声が聞こえてくるかな
1.2.3.4 5つ数えてバスケットシューズがはけたよ
ドアをあけても 何もみつからない
そこから遠くを ながめてるだけじゃ


別にグレてる訳じゃないんだ ただこのままじゃいけないってことに
気付いただけさ
そしてナイフを持って立ってた


僕やっぱりゆうきが足りない「I LOVE YOU」が言えない
言葉はいつでもクソッタレだけど 僕だってちゃんと考えてるんだ
どうにもならない事なんて どうにでもなっていい事
先生たちは僕を不安にするけど
それほど大切な言葉はなかった


誰の事も恨んじゃいないよ ただ大人たちにほめられるような
バカにはなりたくない
そしてナイフを持って立ってた


少年の声は風に消されても ラララララ・・・・
間違っちゃいない


そしてナイフを持って立ってた


そして


いろんな事が思い通りになったらいいのになあ

街 -ザ・ブルーハーツ-

アスファルトだけじゃない
コンクリートだけじゃない
いつか会えるよ 同じ涙をこらえきれぬ友達と
きっと会えるよ

毒ガスばかりじゃない
ドロ水ばかりじゃない
いつか会えるよ 同じ気持ちで爆発しそうな仲間と
きっと会えるよ


その時 おまえには 何が言えるだろう
その時 友達と 何を話すだろう


見せかけばかりじゃない
口先だけでもない
いつか見るだろう 同じこぶしを にぎりしめて立つ人を
きっと見るどろう


その時 ぼくたちは 何ができるだろう
右手と左手で 何ができるだろう
命のあるかぎり 忘れてはいけない
今しか ぼくにしか できないことがある

私事はあまり書きたくないのですが

 先週からの一件で、まぁいろいろあったのはテキストを見れば一目瞭然なんですが、それは俺が起こす行動に対しての説明であって、私事といえば私事なんですが、必要と感じ書いたことです。

 リスタート。言葉はキレイですが、どんな形であれ、俺がどんなに説明しようとも、俺と話したい人は手を上げてください。誰も上げなければそれで結構。いわばフルイにかけたと同じであり、皆を試した。と同意味であることも確か。否定はされても賛同されることはないでしょう。

 ですが、それで自分がスッキリしたことも確かであり、自分的選択に後悔はないと思っています。

 なので寝れないのは置いといて、頭痛自体は少しずつ治まってきています。これも想定の範疇。それとは別に、ここ数日間、っつても2~3日程度ですが、何も書きませんでした。否、書けませんでした。理由はタイトルの通り。でも今回はあえてそのことを。

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-文字 は時によって言葉より鋭い凶器と化す-

 自分は本来小心者です。ビビリです。そして、肉体年齢や経験、社交性は持てども根本たる精神年齢はただのクソガキなんです。人間、出来てません。

 ザ・ブルーハーツの歌でそれに共感し、性格的にもそっちのベクトルに向いたと言っても過言ではなく、自分のだいたいの性格を知りたければ、ザ・ブルーハーツの1st、2ndアルバムの歌詞を理解してくれれば、だいたい把握できると思います。

 だからと言ってはなんですが、相手が噛み付いてきたら、まぁ程度にもよりますが(甘噛みとかならね)、こちらも噛み付く。噛み付いている方は、相手の痛みは分かりません。逆に自分が噛み付いている時に相手の痛みは分かりません。

 お互い噛み付いて、まず自分の受けたダメージを知る。そしてどちらも噛み付いたからお互いが痛みを持つことを知る。知らん人だったら知ったこっちゃない。と思えばそれで済みますが、近しい人だと相手の痛みを自分で付けたことを知ります。

 ここまでくると、もう幼稚園児のケンカと同じ。悪いと思ったんなら、ゴメンナサイ。理由はともかく相手を痛めたことには違いないから。何故そうなったかは、それとはまた別の次元の話かと思います。


-言葉 は時によって簡単に人を殺す-

 文字は時に言葉より鋭くなりますが、言葉となるともっと強烈なわけで。「言葉の暴力」なんて言葉もありますが、何気ない一言でも、悪気の無い一言でも、時に相手の心えぐるようなこともあります。俺は1度それでものすごく痛い目を見ています。

 だから最初のうちは言葉を選んだり。これを言ったら相手はどう思うか?など極力相手が傷つけないよう心がけて喋ってる「つもり」です。つもりなのは自分の発した言葉を捉えるのは相手であり、どう捉えるかは自分では分からないからで。だから会話を繰り返す。相手をもつと知るために。

 だんだん近くなっていけば、相手のことも少しながら分かってきます。だから自然に傷つくようなことをお互いが発しなくなります。ただ、傷つけるのと、諭す、怒る、耳の痛いことを言うのは全くの別物であって、友人の言う「耳の痛いことを言ってくれるのが本当の友達」というのは全くもってその通りだと思います。誰だって友達に苦言なんて言いたくありません。でも、友達だからこそ言えることだと思います。


~~~~~~~~~~長い前置きはここまで

 神様がいるとすれば、俺に唯一人よりパラメーターを上げてくれたこと。思ったことをそのまま文字すること。それがなんかの事象であれ、自分で思ったことであれ、それをそのまま文字として表すこと。それが長所でもあり短所でもあり、まぁ特徴って言った方がいいかもしれません。

 ただ、この数日なんも書かなかったのは、ブッチャケて言えば心にモヤモヤがあるからで。心にモヤモヤがあると、思っていたことがそのモヤモヤで捻じれてしまったり、自分が言いたいことをそのまま書くことが出来なくなってしまうから。今もモヤモヤはありますが、それをグッと隅の方になんとか寄せて。


 人は誰でも、”これだけはしてくれるな”という物があると思います。自分がされて一番イヤな事。それはその人の人生経験だったりすることだから、イヤな事も人それぞれ違うと思います。ここで長い前置きが活きてくるのですが、人を傷つける、傷つけられる云々ではなく、その行為、言動=もっのすごくイヤな気持ちになる。それは相手の善意、悪意、会話の流れ関係なくそれが出るとイヤな気分になる。近しい人ならなおさら。

 自分が一番されてイヤなのは、妙なモヤモヤだけ残されて会話を終わらせられること。です。

 人を信じるところから始まる確認は、言いたくなければ言わなくてもいいよ。と言える。でも

 人を疑うところから始まる確認は、モヤモヤが先行し、何時か言うと言われても、それを信じることに対して非常に難しい。理由。そのモヤモヤを簡単に割り切ることが出来ないから。



 薄っぺらい会話だったら、何時でもできる。そんなんとっくに経験済み。でも今は、腹を探り合うような、狐の化かし合いみたいな会話はしたくない。腹にモヤモヤを持って話をしたところで楽しくともなんともない。自分がされてイヤな事があるように、人もされてイヤな事があることを知って欲しい。そんなつもりじゃなかった。それだったらそれを知って欲しい。



 それが出来ないんだったら、会話自体できない。したくない。それでも世間一般がトモダチと称するんだったら、俺は、1人の方がいい。ハミダシモノでいい。