2010年8月26日木曜日

一匹狼の集まり

 以前、自分らの仲間のことをこんな風に例えたことがあります。個々に、過去、大小は人それぞれど決して消えない傷を持ち、ただ、それを誰かに見て欲しいんじゃなくて、そのキズを逆に知識や経験という武器にしたり。

 誰かが困っていれば、損得無く手を差し伸べる、差し伸べられる。感謝の心は純粋であって、それでありがとうと言われる方も暖かくなる。

 間違っていることをすれば、怒られる。怒られるってことは、すげぇありがたくて、そこらの軽いトモダチだったら、大変だったね~困ったねぇ~で終わらせるんだけど、違う。自分も含め、もっと人として、高みに上るための怒り。俺も仲間が間違ってたりすれば、起こる。

 怒って、離れていくならそれでも良いと思ってる。ただ、怒る方にも確実にストレスはあって、それより、相手の事をそれだけ真剣に考えてる証拠でもある。

 そんな仲間と出会える確率はものすごく低く、一生に何人も会えないと思う。ただ、どんな高級な茶碗でも、使わなければただの土をこねて焼いたものに過ぎない。

 その茶碗だって使われる。それを止めることはできない。使っている以上、壊れることもある。その時にどうするか?燃えないゴミとして捨てるか?なんとか原型を戻すよう努力するか?それは自分の力も必要だし、そんな時に仲間の存在が大きいと思う。

 馴れ合いは好きじゃないから、毎日ヘラヘラと笑ってることも出来ない。自分の感情を殺して、相手に付き合うことも好きじゃない。だから誤解も生まれると思う。特にメール不精、電話不精な俺にとっては。

 そう思われても仕方が無いことをしてる。でもそれを隠して生きてくつもりもなく、まぁこの社会ってものはそれがまかり通らないことも知っているが。極力自分に正直でありたい。

 多分、と思うが、俺が仲間と思っている人は、そんな風な人が多いと思う。周りのいろいろな情報の中から、自分で選択し、自分の道を進む。飄々と。凛々と。

 そんな仲間が、大好きです。