2011年9月18日日曜日

友人が撮影して頂いた動画。

 実際の声、実際の風景を動画で見て頂ければ現実味が出てくると思います。



 【福島県】負け犬と友人が行ってみた①【半径20キロに向かう】




 【福島県】負け犬と友人が行ってみた②【半径20キロに向かう】




 【福島県】負け犬と友人が行ってみた③【半径20キロに向かう】


福島の危険エリア付近の現実

※このテキストはテーマにそって書きたいと思いますので、2日間の中で時系列が前後している箇所がありますのでご了承ください。

 今日、福島から帰ってきました。友人と行ったのですが、最終日は疲れてしまったこと。見れる範囲で見ることが出来たことから、最終日はほぼ直帰という形をとったので1日目、2日目に出来る限り見れるものを見ました。

 全てを見たわけではないので、主観が入るかもしれません。が極力、率直に見た現実を書きたいと思います。

 郡山駅到着。1時間30分程度で行ける場所です。福島には、日本海側、中央(中通り)、太平洋側(浜通り)と大きく3つに縦に山で分かれています。郡山、福島市は中通りに位置しています。

 駅を出て、レンタカーを借りるまで周囲を見ていましたが落ち着きを取り戻していて、普通に暮らしている感がありました。



 国道288号線を太平洋側に走るにしたがって、地震が残した傷跡が見えてきました。この写真は、この先に鉄塔があり、鉄塔付近の補修をしたものと考えられます。砂の部分は崩れた場所。その上の伐採は補修に索道を使ったと想われます。





 広いエリアで伐採されていました。大規模な崩落の可能性があり、その対策を行っているかと思います。山だけではなく、家の屋根、瓦屋根はほとんどが損傷しており、中には建物が真っ二つになっている物もありました。これらを撮影している道路も、多数の箇所で陥没、大きなヒビが確認できました。主要道は補修されているものの、まだ手付かずの箇所もありました。こちらも時間がかかりそうです。



 国道288号線。を行ける所まで行った所に封鎖線がありました。20kmエリアから6kmほど手前の場所で行っており、通る車両のナンバープレートの称号等を行っていました。パトカーに乗っている人は防護服。20~26km間で行き来する方はマスクをしていました。

 警察の車を見た所、長野県警の方でした。聞いた所、沖縄以外の警察の方は全員見たそうです。約1ヶ月で交代となるようですがお疲れ様です。


 道中、東に行く道には全て写真のような看板とカラーコーンがおいてありました。抜ける方法はありますが(山に入るなど)不正に入るつもりもないのでここまで。と引き返すことに。ここに測定器がありましたがこれはまた別途書きたいと思います。

 本来であればのどかな田園風景だったはずの場所。ほぼ全ての田畑は荒地となっていました。もう1つ西の場所では普通に水田があり、稲刈りを待つ段階まで育っていて、本当に山一つ超えた場所では、何も手を付けていない状況。

 このギャップより更に感じたのは、本当に人がいない。普段であれば下校する子供達や犬の散歩をしている人達などが、子供は皆無。ほとんどの人が避難しているようです。生活感は残っていて、洗濯物が干してあるのに、誰もいない不自然さ。非常に印象深かったです。

 大きな酪農家があったので、もしかしたら。と寄ってみましたが、誰もいませんでした。誰も、人も、牛かとおもわれますが、畜産物も。

 そこで飼われていたと思われる犬がいました。鎖は外され、自由に動けるのですが、主がいなくても未だ番犬としてそこにいて、役目を果たしている。

 ここの牧場の方の心境は、言葉にできません。が、自分の想像以上の感情があったと思います。

 暗くなったので宿に帰ることに。街灯は光れど、この暗さになっても民家に光がついている家はほとんどありませんでした。ここに残っている(失礼な書き方と思います)理由も様々だと思いますが、圧倒的に真っ暗な家が多かった、というかほとんど真っ暗でした。当然、商店、自販機なども電源を切り、シャッターを閉め。屋根は補修の最中であったり。

なんとも言い切れない気持ち。少しナーバスな感じになりました。



 この写真だけではなく、先日書いた地図の通り、結構長い距離を走りましたが、ほぼこのような状態でした。

 一山西の田村市、川俣町に行くと、子供達もいて、地震の跡はあるものの、生活感があり、少しホッ。でも一山東の光景は、忘れられるものではありません。

2011年9月16日金曜日

福島県にいます


 ただいま、福島県福島市におります。予約したホテルに幸運にもパソコンがあったので途中経過だけでもと思い。
 目的はツイッターやらいろいろなニュース、国の発表も含めたマスコミの報道、それらが皆バラバラなこと。そして一番の目的はやはり自分達の会社が起こした火事である放射能の影響をリアルで見たい。というのが目的です。

 9/15に出発し、郡山に到着。チェックインするまで時間があったので、原発に直結する国道288号線を行けるとこまで。実際途中の検問でココ以上先には行けない所まで行きました。(オレンジの線)

 そして今日は、農業や酪農を営んでいる方たちに話が聞ければと思い、ギリギリの所をひた走りました。実際、声が聞けたのは一人だけでしたが。(赤線)

 この2日で、いろいろな物、事実、リアルを見てきました。詳しいことはまた追って書きたいと思います。「リアル」を見てきました。

2011年9月14日水曜日

二の舞

 同じテツは踏まない。など同じあやまちを繰り返さない言葉はいろいろあると思います。

 人間誰でもミスはする。そのミスはなにか。それはミスではなく、決断し、行動した結果かもしれない。それはらは原因を考えなければ、はっきりと反省する事、繰り返さない事は難しいと思います。


 決断し行動した結果として、裏目に出たことを「ミス」と捉えていいのか。その決断をする前に「ミス」は無かったのか。そもそも「ミス」って何?


 1+1=1

 と本当は2だと分かっていても書いてしまう。間違い。これはミス。確認不足。一般的常識を逸した行動。これらもミスと言えるだろう。行動そのものがミス。


 リスク管理の中で、リターンとしてマイナスの結果になってしまった。結果としてはミスであるが、問題なのはマイナスになった結果ではなく、そのリスク管理にあるのではないか。


 何故、マイナスになってしまった?どこが?リスク管理に漏れがあるとするのなら、そのリスクに対する知識不足となる。それを補えばプラスになっていたのか?結果としてまたマイナスになるかも知れないが、これは過程としては、同じテツではない。まだ足りなかったという結論となるのかもしれない。


 感情論となると、もっと複雑になる。人々はそれぞれの考え、思いを持ち、正解でもあり不正解でもあるのだから。


 正解、不正解の無い、思想的な部分になると、ミスという概念が崩れ始める。誰もが怒らせたくて何かを言う訳ではなく、なにかに引っかかった部分があるから、そこで感情が生まれるのだろう。


 じゃあ黙っているのが正解なのか?と問われるとそれも違うと思う。楽には違いないが、そこに自我、自分という物はなくなってしまう。そこにも正解、不正解はない。


 言葉は時として簡単に人を殺す。だから話す時も言葉を選ぶ。話さない。という選択肢もある。でも結果として選んだ言葉が明らかに間違っていた。それを自覚できたのなら、そこに反省が生まれる。それはその単語だけではない。あらゆる言葉においてその自覚は活きてくる。

 それが完全に出来るか?と言われると補償は出来ないが、それで消極的になるのではなく、反省し、身に付けた事がある。それを活かせばいい。


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 同じ二の舞にももう1つあって、誰かが体験したこと、その経緯、結果を知り、別の人が、そうならないよう知識として持ち、助言する。これは自分の欲求からくるものであるから、受け止め方は人それぞれとなってしまうからまた難しいが。


 人はそれぞれがそれぞれの生き方をしてきたから、同じ助言をしても、時として結果が違う場合がある。理屈で言える物であるのなら、誰に言っても同じになるだろうが、感情となると全く別の問題となって。それを黙って見過ごすか。二の舞になって欲しくないよう何かを言うか。

 これも、千差万別であるのなら千差万別の言葉の選び方となる。難しいことだ。時には傷つけてしまうこともあるかもしれない。良かれと思っても。


 でも、それを繰り返す。人と接するというのはその繰り返しではないかとも思う。反省と選択と判断の繰り返しで、深くもなり浅くもなる。


 深さ、浅さ、時には一発でダメになってしまうかもしれない。でもそれも結果にすぎず、その結果を活かすも殺すも自分次第。自分があって、人がいて、人があって自分がある。なんか禅問答のようにになってしまった。死ぬまで考えるテーマなのかもしれない。と思います。

2011年9月10日土曜日

会話

 眠剤を飲んで横になっても、フとしてた事で考えたりして眠れないことは、別に普通にあるんですが、ネガな思いのループで眠れないんじゃなくて、思い。的な事から考えが膨らんでいく。ループじゃなく。そんな時もあります。


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 自分はスロットが好きです。趣味と言ってもいいと思います。公営であってもギャンブルである以上、良い印象を持つ人は少ないと思います。かつ、ヒマだから。とか、1人になりたいから。とか、逃げ道にすることはたまのたまにありますが、基本好きで行ってると。行きたくて行ってると。


 金もねーのに。もっと使うべき所がある。それをも承知の上です。そこは今回置いといて欲しいです。別の話ですから。


 店に入った時、ホールは町、台は人、打ってる人はその台と戯れている。とまず見ます。町も何度も行けば地理や雰囲気が分かるように、店自体の雰囲気やドコに力を入れているかが分かります。

 台は人。と言いましたが、何台もあれば、まぁ皆同じ顔なんですが、店のクセから判断し、昨日、一昨日と暴れてるなぁと思えば、今日は大人しいであろう。逆に連日元気が無い場合、今日は上げてくんじゃね?とそれで台を選択するんですが。


 そこから、自分は台と会話を始めます。変?かもしれません。でも台との会話は必要で、何故か、その台が今日、元気か、大人しいのか判断しなくてはならないから。

 その会話をするには、台の性格を知らなければなりません。ようは内部システム、どんな挙動が高設定なのか?どんな確率なのか?外から判断できるのか?等の細かい情報が無ければ会話は成立しないんです。元気?と聞いても答えはしません。自分の持つ情報から打ち始め、そこから会話が始まります。


 例えば子役の出現率に設定差があれば、その出方。ARTに設定差があれば、それに入れなくては。入りやすさにも設定差があれば、それも判断材料の1つになるわけで。ほーこれで入るか。とか、んーあんま役出ないねぇ~なんて心で会話しながら台を見切ったりしてるんですね。


 まぁ運が絡んでくる以上、明らかに高設定の挙動を示しても負ける時は負けてしまいます。自分の持つ今日の運。これを見極めるのも必要なことで。ただ、自分の運が悪かったけど、その台は高設定。じゃあ明日はどうなるか。これも会話の1つになるわけで。もともと運が良いとは言えないので、その会話、判断は迅速にします。これらも、いろいろな情報が絡んできて、その中には根拠があるんですね。


 じゃあこれを人であったらどうか。当然、相手の性格だったり、行動、思い等の情報を知って初めて深い会話が出来ると思います。その会話の中で新たな情報を得たり、それに対して発する言葉も理由、根拠があるわけで。クダラナイ事は理由もなにもないんですが、友人と同様、情報は武器だと思っています。

 武器と言うと戦い的イメージがありますが、砂漠に行く時の準備でも、災害に対する対策でも良いんです。それらが多いほど、相手の事を理解できたり、根拠のある行動・発言が出来るってなもんです。何も知らなければ、それで終わり。説得力も無くなります。1%しかしらない人と70%知ってる人では全然違うって話です。


 情報っていうとどこかデジタル的なイメージもありますが、対・人となると、その人を完全に理解できることが出来ない以上、アナログ的な部分の方が多いと思います。だって人間だもの。根拠のない行動だったり、衝動だったり。いろいろありますから。次の一手が正解でも、勝ちは別。それと同じです。



 だから人って難しい。そして、面白い。喜怒哀楽があって、会話の中で、楽しい方向に行ければいいなと。



 思いを書いて満足したら眠くなってきました。複雑なんだけと、しごく単純なんです。人間って。

2011年9月8日木曜日

俺は別に天使じゃない。

 別に良いコトもしてないけど、カッコワルイ事もしてない。とわ思ってますが、なにせバカな分、バカな事はしてしまったりします。

 福島行き(フクシマって書く。。。うーん)のチケットが届きました。何時でも出発できます。が、15日なんですけどね。届いたのが、午前中のダラ~タイムだったのがいけなかった。何故か届く前に洗濯機のスイッチを入れて、宅急便にサインして確認。

 了解~と机に起きそのままゴロン。ハッとしたら洗濯が終わってたんで、干したんですが、台風の影響で風が強く、まぁ雨は降らなかったのですが、風で電車の切符がどこかへ。。。焦っていろいろ探したんですが、どうにも無いんで、とりあえず、家にあるのは確かなんだから、明日もっかい探そうと、寝たんです。


 妖精さんっているもんですね。イタズラもすれば助けもしてくれる。朝起きて、フラフラ~とソファーに倒れそうになっておっと。。。と思ったら切符踏んでました。ソファーの下に飛んでったんですね。さすが妖精さん。ってかその前にちゃんとしまえ。という話ですが。

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 話変わって、俺、ボランティアってのが、その言葉が、あまり好きではありません。なんとなく偽善っぽく聞こえるから。募金も同じで、どんなに募金したとしても全額がそこに行くわけではなく、しかもどんな使い方をしているのか分からないって部分もありで。します。でもそこに自分では良い事をした~なんて実感はあまりないのが感想でして。


 それでも、知っている人が、困っている人を見るとほおってはいけない性格でして。矛盾はしてますが、別にそこに見返りとかなんて望んでなくて。。。いやあるか。自分の心の満足。

 相手が楽になれば、楽しく生きれれば、接している自分も楽しくなる。ただ、それだけなんですけどね。でも上っ面な慰めや無責任な事は言えません。馴れ合いがキライで、ただ、慰めてほしかったら、ヨソ当たってくれ。と。


 だから問題を解決させるために、原因を知りたくなる。原因を知るためには、それなりに言葉を交じあわせる必要があって。会話でも、その重要度によっていろいろ変わってきたりします。それは真剣です。遊び半分で足を突っ込むようなことはしたくありません。

 軽い事ならメールなどでも良いのですが、もっと大きかったら電話で、更に大きかったらフェイス トゥ フェイスで、相手の顔を見ながら話したい。文字だけでは限界があり、言葉だけでも限界があるのを知ってるから。


 今度、電話していい?今度、会って話しない?というのにも自分で想うところの重要性と根拠があって提案したりしてるってことです。が。


 タイトルの通り、真剣であっても、別にそれを押し付ける気もない自分がいるのも確か。おせっかいや、ましてや自分第一な俺。手は差し伸べても、その手をとるかとらないかは相手であり、自分から引っ張ろうなんて気持ちは別に無いんです。それで相手が溺れてしまっても、溺れるのは自分ではない。


 だって、本当の相手の気持ちなんて完全に分からないですから。手をとらないにしても、とらないなんらかの理由があるのでしょう。手を差し伸べるのは自分のエゴ。だからとらないにしても、それはそれで、別にいいんです。それで心は痛まないですし、自分に害があるわけではない。


 自分は善人でも聖人でも天使でもなんでもないんです。自分は自分であってそれ以外のなにものでもないんです。というお話。



 でも、やっぱ心配しちゃう俺がいて、これは言いたい。俺はココにいて、俺は俺で、何時でも、手は差し伸べてるよ。と。

2011年9月4日日曜日

基地の行動?

 今日、病院にいきました。

 モノレールとか、電車とかで疲れてしまい、頭痛もあったので、病院についてレキソタンを飲む。


 横になりたいと思い、待合のソファーじゃ人が来るし、そもそも他の人に迷惑だな。と思い廊下の隅で横になっていたら看護士さんが、そこは困ると。


 でも、そこの待合ソファーで横になるのも迷惑でしょ?と質問したら、そうだねぇ。と言われました。縦じゃダメなの?と聞かれたので、横になりたいんです。と。


 看護士さんが困ってしまったので、じゃあ、外行ってますね。と言って、送迎バスに気付くよう、病院の入り口で横になってたら、やはり看護士さんに通報されて、飛んできた。


 横になりたいだけなのに。別にそこはドコでもいいんだけど。。。。


 横になりたいという欲求をそのまま実行してるので、心と頭はリンクしてるかと。ただ、極端すぎたかな。。と思いますが、それだけ横になりたかったのです。

2011年9月1日木曜日

少しは自分というものを分かれ

 リアルでもネットでも、自分が何かする時、何か会話する時には必ずと言っていいほど、実は根拠と計算が入っていまして。ってか時にそんな考えもなく、ダダ漏れのように言葉を発したり、壊れたかのような行動をとる時もありますが、分かる人は分かると思います。違いの分かるヲトコ。YOU。


 そんな会話の中で、無茶な事も言ったりもするんですが、感情で話しているのではなく、質問であればその理由を。こちらから発言するのであれば、その対応の先の先ぐらいまで計算して話しているんですね。


 自分の思想がオカシイのかも知れません。が、筋が通らない事をヨシとしない性格な自分は、先を読んでいる分、それ違うだろ。って返答に対して誰であろうと噛み付いたり。



 なんでそんな事が言えるのか。ここからは個々の判断もあると思いますので、第三者の視点で書こうかと。


 前回の産業医との面談で、今、自分がモヤモヤしている最大の原因である福島原発を一目でいいから見たい。リアルを見ることでスッキリするんです。と話したところ、良いんじゃないんですか?それでスッキリして、復帰への目標することで、療養にも役立つと思います。と助言を頂きました。それが8/12の出来事。


 事故現場を見る。言うのは簡単ですが、いろいろな課題が浮き彫りになるのはいわずものがな。わざわざ「危険」な所に裸一貫で行った所で門前払いを食らうのは分かりきってます。


 なのでその為の根回し、いわゆる外堀を埋めるところからすぐに始めました。上司に直接言っても、バッサリだな。。。と思い、上司に話す為の根回しから。会社員側の組織。労組の人を引き込もうと。丁度用事もあったことから、その人にお願いしました。支部、総支部、本部にも話して、こんな人が療養の為に見学したいと言っているんだけど。だけでもいいんで。と。先読み済み。


 で、福島に行く計画がだんだん決まってきてきたので、ちょいと突付いてみました。その人からもお願いがあったので、何度か話をする機会があったのですが、その人から原発見学の事が何も。”やっばり”なんも言ってねぇなこりゃ。と。でも黙って、前お願いした現場見学の事、お願いしますね。とだけ。


 9/15に福島に行くことが決定し、今度はこちらから。自分がお願いしてから3週間以上経っているので、YES,NOの解答は出るでしょう。そしたら、

「いや~見るのは難しいと”思うよ”」


 いや貴方の意見は聞いてなく、自分のお願い、してくれたんですか?してないでしょ?8月上旬。分かったって言いましたよね。まずここに言ってる事とやってる事が違うことがわかります。


 ちょっときつめに言いました。これは自分の復帰にむけた目的でもあり、いわば療養の1つなんですよ。難しいのは分かっています。被爆のリスクもあるでしょう。それを知っててお願いしてるんです。別にボランティアに参加するとかではなく、一目見て、スッキリしたい。それだけなんですよ。

 まだ出発まで2週間あります。ホントにちゃんと話してください。貴方は支社長とも対等に話せる権利を持ってます。それを言うだけでも結構です。ってか言ってください。と。了解した。と返答をもらいました。


 その当日、計算通りというか、予測通りというか、上司から電話がかかってきました。「いやぁ~支部長が困っちゃっててさぁ」いや困るのは貴方ではないんです。ってか困るにも原因があって、また筋を通せない理由。これ、言わなきゃいけないの?話題にしちゃって本当にいいの?との葛藤もあると思います。それで、窓口である自分の上司に泣きついたと。


 ここで、正式にお願いをしました。内容は伝わっているので話は簡単です。結論とすれば、危険エリアに入る事は国の許可が必要であり、その許可もただ見たいという理由ではおりず、同じ思いを持つ社員ですら入れないこと。自分も別にゲリラのように入ることはしたくなく、国がエリア内に入れる人は、入る為のよほどの理由(避難者の一時帰宅、登録した作業員等)でない限り許可は下りない。

 よって、現状では、事故現場20km圏内は入れない。という結論。


 やっと筋の通った解答がきました。入れない、現状を見れば、見れないというのも、想定内、計算内であって、入れない。という答えでも、あやふやな状態よりスッキリするものです。無理矢理にでもなんて考えてはいませんでしたので。


 要望に必ず答えろなんて、誰も思っちゃいないんです。やるかやらないか。イエスかノーか。確固たる根拠での解答を求めてるんです。これだけ長い間イチャモンも言ってきて、極端な行動もしたのに、もう少し、自分っていうものを分かって欲しいものです。ヤツには中途半端な事は言えないと。理系ですよ?理屈があって、結果がある。理屈がなければ理屈を求めるのも当たり前でしょう。空気なんて読みませんよ。


 自分が投げかけた時、いや俺じゃそんな事言えないよ。でもその人の本音であって、意思表示として理屈があり、筋は通ってます。でも立場上、言えないというのが言えないのであれば、その責務において言うしかないんです。言えないんであれば、その席にいる資格が無いと言えるでしょう。



 これは1つの縮図であって、会社の経営層、政府など、言えない、分からない、知らないと言えない人達が適当な事を言って、結果あやふや、中途半端な発言をしたもんだから批判される。バッシングされる。当然かと。発言に対する責任がとれてないんですもの。


 ひとまず、福島に行くのは決定しているので美味しい物たくさん食べて、地元にお金落として、見える範囲のリアルを見ようと思います。




 余談ですが、10月に5,000人規模の大規模な補償人員増強の人事がある事を知っていて、それが9月に前倒ししたニュースを見て、初めてその事を言ったんです。いわゆる裏事情だったので、正式発表後の方がいいかと思って。

 また裏事情で、5,000人と発表したにも関わらず、人員不足で関係会社の方を逆出向させ、人員を埋めようとした所、それも追いつかず、9月の増強が厳しい現状にある。というジャブを上司に出した所、漫画のような返答。

「な、なぜそれを。。。!?」

 的な解答が返ってきました。物申す為には情報という武器を持たなきゃ、返り討ちにあるのは当然でしょ。アンテナ高くしてますよそりゃ。


 その対策も聞いたんですが、その内容はともかくとして、9月に増強する。とプレス発表した事に対して、調整厳しく、無理だったので10月にします。という事が言えない会社。言わなかったら、またウソをついたことになりますよ。と。それが信頼を落として批判を増やす事が分からないのでしょうかねぇ。。。経営層は皆、





良い大学を出てるはずなのに

2011年8月30日火曜日

眠れない夜

 何時もの時間にいつものように眠剤を飲んでも、眠気が来ない時は確かにあって。眠くない時に眠剤を飲んでも効かないというのは医師も言うことなので、あまり気にしてはいないのですが。

 そんな睡眠不足だったり、不摂生な生活を送っているから、身体になんらかのことが起きてもなんら不思議は無いわけで、それを何かのせいにするってのも、全く根拠は無いのですが。

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心霊現象があることを前提として


 霊感の強い友人曰く、自分の部屋は霊の通り道で、常に少し窓を開けるというのは、前から何度も書いています。

 そして、霊感の強い友人であれば、なんらかの気配を感じたり、なんらかのエネルギーを感じたりすることが出来るのかもしれませんが、残念なことに、幸いかもしれませんが、霊感がほぼ無い自分にとってはどんなに目をこらせようと、どんなに集中しようと、なんも感じません。


 なので、不可思議な物事で察知するしかないのですが。自分の部屋を知っている友人なら分かると思いますが、何も無いのに、なにかの物音がする。いわゆるラップ音が度々起きるのは確かなことで。


 霊・魂を1つのエネルギーと仮定すれば、そのものが移動する時、なんらかの力が加わり、その力がどこかに波及し、物音を立てる。と解釈すれば説明が付きます。

 逆に、家のきしみだとか、風のイタズラとも言えるのですが、果たして家のきしみや風などが、ドアやふすまをノックしたりするのでしょうか。


 というのも、今日、起きたラップ音はちと強烈でして、部屋にフラッシュをたいたような閃光とパチン!という音。ベッドに入り電気を消し、寝れんなー。。。なんて思ってた矢先でしたので起きてはいたかと。


 パッと考えられるのが、なんらかのヒューズが飛んだり、電球が切れた。というケース。REDなども含め探してみると結構電球って多いものです。トイレの電球が切れる時とかもパチン!と言って消えたり。こんな時の原因として、なんらかの原因で、止揚り高い電圧がかかった時に起きることてヒューズなり配線が切れるんです。

 が、寝る前に、スピーカー、パソコンのモニターを切り、天井の蛍光灯消した状態で、部屋全体を明るくするほどの閃光が出るものか、不可思議ではあります。


 当然ですが、ヒューズに関係している物、電球などを総点検。電球が切れていれば光らないですし、ヒューズが飛んでいれば、そのコンセントなりは使えない状態となるのですが、全て異常なしでした。ビニール等での静電気というのも考えられますが、フラッシュほどの閃光は出ないかと思います。


 と、考えると、なんらかのエネルギーが何かに作用し、ラップ音と光として発した。というのが一番腑に落ちる結論となるのですが、なにせ霊感がないため、確証もないのですが。


 これで、何かの声でも聞こえれば、心霊現象だ。と言えるのですが、この部屋、まず無音という状況は無く、パソコンのファンの音だったり、外からは車やバイク、電車、ヨッパライ、サイレンなど常に音がしている状態。


 かつ、幽霊の発する言葉というのは、EVPと呼ばれ、人間が聞き取れる周波数帯ではないことが多く、それ専用の録音出来る機器が必要というのが、心霊調査を行う人達の定石となっています。


 このラップ音で一気に交感神経が張り詰め、眠気も来ない。というのもありますが、これを書き終える頃やっと眠気が来ているのも事実であって真に曖昧なのが厄介なところかと思います。

2011年8月27日土曜日

生きる理由

 人間誰でも生を受け、生きて、いずれ死ぬ。この理は抗うこともできない。その中でやはり人間、なんで生きてるの?という疑問にもにた物は常に現れる。


 生きるためには、生きるだけの理由がある。その考えは人それぞれだから、どんな理由でも否定はしないし誰にもではないと思います。死ぬ理由がないから生きている。それも生きる理由になるのではないかと。


 今、日本中で騒がれている放射能の問題。食べ物、地域、その他いろいろなところに波及している。その中で自分はどう生きていくか。


 外国に避難する人、国内でも西に避難する人、危険と思う物は食べない人、それも自分にとって生きる理由になると思います。死にたくない理由。ともいえると思いますが。


 逆に今ある危険を受け入れる人、その地から避難しない人、避難したくても出来ない人に、自分の生活を少し犠牲にし、なんらかの助力をする人。生活レベルは多少下がっても、別に良いと生きる人。それも生きる理由になると思います。


 そこには、正しいも悪いも差別もなにもなく、自分の生き方の問題であり、それは自分自身で決めることであり、誰にも何も言える筋合いはないのではないかと。それぞれがそれぞれの生きる理由で生きているのだから。


 人間、誰だって、どんな大切な人だって、何時死ぬのかなんて分からない。だからリスクを少しでも回避するのも1つの手だと思う。逆に何時死ぬか分からないんだから、別にそのままでいい。それも1つの手だと思います。


 極論を言えば、どんなにリスクを回避したとしても、明日なにかしらで死ぬかもしれない。そんな事は誰もが思うところであるのではないか。


 なら、生きている今を楽しむ。それもいいんじゃないかと。




 そんな風に考えると出てくる歌

 「トレイン・トレイン」 「チェインギャング」 「チューインガムを噛みながら」

 我ながら、ブルーハーツ世代だと思う。でも、やはり共感してしまう。