2011年5月3日火曜日

-零時-

 天上のアザナを-零時-にしました。理由?なんとなくとしか言えないんですが、ふと、0時って不思議な時間だよね。なんて思ったり。

 1日の終わる時間始まる時間。それが正月でも、クリスマスでも、誕生日でも、0時に始まる。その日のゴールであり、スタートでもある。23:59:59だとも言えますが、そのゴールからスタートまで、限りなく近い、同じ場所にあるって言ってもいいってぐらい不思議な存在。

 時間は円ではない。一方通行でただ、同じ速さで進む。大昔、時間という概念が無い時代だったら、暗くなれば1日が終わり、明るくなれば1日が始まる。それは永遠でもあり、一瞬ともいえるんじゃないか。

 時間というものが確立されて、いまや原子時計なんてのもある。そこに更にうるう年、うるう秒なんてのも出来て。いったいそれがなんの役に立つんだろう。なんて考える。

 別にうるう年の積み重ねで夏に正月が来たところでなんの変化もおきない。ってか時間っていう概念が無ければ1年365日24時間60分60秒なんて無ければ、年齢とかなんて関係ないわけで。年齢というモノがいったい何に影響するんだろう。

 別に時間というモノが無くたって、産まれ、育ち、生き、老い、死ぬ。その道程は変わらない。それだけの事であり、それに区切りなんて必要なのか?春になれば花が咲き、夏になれば暑くなり、秋になれば山が黄色や赤に染まり、冬になれば雪がふる。

 1月だから冬じゃなきゃいけないなんて決まりはない。時間、日、月なんてものは全て後付けなものだ。

 逆に時間なんてモノがあるから、年齢を知る。寿命を知る。死の位置を知る。結果それを恐れる。恐れるのは人間だけだ。その恐れるべきものを人間が作り出した。恐怖を作り出した。咎(トガ)と(業)カルマのなせる業だ。それも人間が造った。

 でも、あらゆる道程で、どんな事でも終わりと始まりがある。出会い、別れ、創造、破壊、生、死。

 それが全て1つの存在である物。それを1つの言葉で表すとするならば

 -零時-

 ではないか。

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