2013年1月16日水曜日

悪魔が微笑む時

 生きていれば、ヤな事って絶対やってきて、いくら自分が悪くても。


 というのは、部屋でカホン叩いてたのがとうとう(やっと?)苦情がきて、まぁ不動産屋さんに怒られるんですが。100%自分が悪いですね。言い訳のしようもありません。


 ただ、やっぱ、チッて思うんですよ。自分勝手なのも分かってます。まぁこれはただの例の1つでそう思う事なんて山ほどあって。だからイライラしたり、カチンときたり。負の琴線なんてどこにでもあって。


 そこに感情が乗っていると、顔に出たりするんですが、割と冷静な時、頭と心が分離してる時、起こります。


 トクン


 心の中に1つの波紋。 黒い衝動といいますか。自分の中の悪魔が微笑むんです。ヤッちまえよ。と。何をするのかは分かりません。欲望なのか、破壊なのか。



 ただ、自分の頭では理性ってものが働いてて、自分でそれが分かるんです。悪いなオマエの好きにはさせねぇよ。と。


 毛布にくるまって、ニタリと笑う。そうなってるのが自分でもわかります。そんな時、物凄く頭が鮮明になる感じがするです。そこに心は無く。

 毛布の毛、1本1本まで見え。PCの換気扇の音も消え、自分の集中力が研ぎ澄まされる感覚です。いや全くの無駄なんですが。



 そんな時の自分の顔、多分、悪魔みたいな顔してるんじゃないかって。

2013年1月7日月曜日

決してオイシクありません

 刑事ではないですが、まず疑うことから始めろ。とまではいきませんが、人間不信におちいったことがありまして。誰も信用できない。ってか信用できる人間なんて簡単には作れない。というのは未だ少し残っておりまして。


 それを鏡に写すと自分が信用される人間になる為には?というのを自問自答を繰り返し、めんどくさくなった(答えなんて出ない)結果、もう自分を作ったりするのは止めようと。そのままの自分を出そう思った次第で。


 なので簡単には約束しないし、ウソというものをリアル、ネットに関係無くつかないというか自分に表裏を作らないというか。まぁ精神丸裸が一番楽なのでそんな生き方をしているのですが。


 ただ、自分の理想と、リアルのギャップは心得ておりまして。ようは自分の思い通りにはいかないのを前提とするだけでも走り方もだいぶ違ってきてまして。良しも悪しきも。


 例えば、自分は信用できると思っていても相手はどうか?この相手というのは、友人、知り合い、自分にも言えることなんですが。


 自分がバカでロクデナシです。っていうと、またまたぁなんて言われますが、実際本当ですし。


 ”自分は別にどうでもいい”という気持ちは実際ありますし。


 「損得を抜きにすればバカの思うことは大概正しい」と言っても、損得考えないといけない時期でもありますし。


 障害手当てが満期となり、障害者年金の申請をする予定ですが、その結果が出るのは3ヶ月半。条件はクリアしていると言っても、必ずという保証は全くなく。またその間の収入はゼロという状況。


 なんとかなるだろという楽観と、いややばいだろという危機感。どうすれば?どうすれば?


 知らんという答えになってしまうのは自分の悪い癖か。ただ借金してでもなんて回答にはならず無理なものは無理ですし。コレは金だけじゃなく、心にもいえますが。


 ライブ、よく行きます。でも自分の名前を知ってもらおうと、仲良くなりたいという営業的気持ちで行ったライブは無くないです。行きたくて行って、結果顔を覚えてもらった。これは譲れないところ。自分的無駄遣いではないかと思います。


 音楽という世界に入ろうと思い、そんな行動をしてる。それであれば、ある程度、名前と顔と信用を得なければならない。それでもそこは曲げられず。不利?不器用?かもしれませんがそのスタンスでいこうと思います。


 それで結果的に、自分も皆も満足すれば、それが一番ハッピーかと思います。ただ、自分は決して良い人ではありませんと。見返りの無いものは嫌いですし、計算もします。ここで言う見返りとは別に金だけじゃなくて、精神的なモノもも含まれ。。。そっちのがデカイか。決しておいしい人では無いというのは確かな事で。


 それは自分に対する楔でもあると思うのです。それで、今の自分がいる。良いんじゃないでしょうか。


 いろいろな状況の変化に対応し、いかに自分をそのまま出すか。それには自分が変わらない努力をしなければないないと。



 なんで変えないの?今の自分が好きだから。

2013年1月6日日曜日

あけました

 今更感がいなめませんが、無事、新年を迎えありがとうございます。

 大晦日、元旦と風邪をひいてしまい、多分、発熱してました。(体温計がないもので体感で)2日に帰省しました。日帰りですが。

 入院中の母のお見舞いは行けませんでしたが、お墓参り→初詣とセットで行ってきました。


 お墓参り。普通であればお彼岸とかその時期にするのですが、このような事は気持ちが大事と思っている自分は何時でも、自分が行きたい、もしくは行ける。ご先祖様を供養したい時にするのが一番良いんじゃないかと思ってます。

  よくワカランお経読む、聞くより、ありがとうと心で思う方がよほど供養になるんじゃないかと。もし魂があって、精神世界というものがあるのなら。

 なので正月にお墓参りも俺は良いと思う。と言ったところ

 アニ「そうだね、悪くないと思うよ」

 俺 「でしょ?何時でもいいんだよお花とかないけど気持ちの問題なんだよ」

 アニ「でも、お盆はやっても意味ないかじゃない?ほら、お墓行ってもいないじゃん。家行ってるから」

 俺 「。。。そだね」


 とお盆以外は何時でもいいんじゃないかと思います。無宗教でも、ご先祖を敬うというのは意味は違うと思いますので。


 その後、可愛がってたネコのお墓参り(お墓ではないけど)に行きました。山の神様の祠なんですが、ネコが死ぬとニシンをお腹に抱えて埋めるというのがいつもやってたので。そこへ。


 で、初詣です。ご神木が1本バッサリ切られてました。それなりのお払いとかしたとは思いますが。。。ううむ。

 お賽銭という、願い事まで金かかるんかいと思いつつ、お願いを。。。って何お願いしよ。。。





 俺以外でいいから、皆、健康で平和に暮らせますように

2012年12月31日月曜日

2012年大晦日

 なんていうタイトルで今年を振り返ってみたりしているブログが多いのでしょう。確かに記憶に焼きついたような出来事、事件その他諸々。。。365日もあるんだから何かは起こります。

 そうは言っても自分も今年を振り返ってみて、どんなだったか、1年という月日が経ってどうなったか。。。答えは


何も変わらなかった


 です。あ、いやいろいろありましたよ。チャレンジしてみたり、ロマン見つけたり、心内的出来事であれば、A4に箇条書きしても何枚いくかほんともう。


 でも、自分のスタンス的なもの、考え方の根本的なもの、要は心は何も変わっちゃいないということで。これも良し悪しなのですが。


 相変わらずバカでバカなことばっかやってる。でも悪いとはちーとも思っちゃいない。精神年齢は中学生?です。はい。

 それはそれで難しい事なのですよ。時間は過ぎて、状況も環境も変わっていくから、変わらない努力ってのもしなくちゃなんなくて。


 病の方は良くなってきてます。これも状況の変化。それで、本来何か変わっていってるはず。年もとったし。でも相変わらずロマンというものに目がなく、それを追っかけて。。。

 周りからすれば相変わらずバカな事してんなー。否。違います。バカに輪をかけてバカ事やってるってのが正解です。これが変化といえば変化なのですが。根本は全く変わってなく。



 当然、悪い方面も変わってないのも確か。いろんな人と出会い、別れ、いろんな事して、結局行き着く先は1人、相変わらずの海に浮かぶワインボトル。港無し。つまり自分の居場所無し。

 ソロが好きという訳ではないんです。根本が変わってないから、結果的にソロに方角が向いてしまう。寂しい時もありますよ。共有できず、焦燥感にかられたりする事もありますよ。でもやっぱりどこ吹く風の雲のように風天に生きてしまう。


 仲間と呼べる人はいます。孤独では無い。それは分かっているんですけどね。変わりたい?もっと社交的に生きれたら?その努力も必要なのでしょう。


 毎年、毎月、毎日を出来るだけ努力と勉強で生きてきた(たまに暴走もするが)つもりではありますが、まだ足りないと自分で思っているのであれば、まだ死なない理由にはなります。


 来年は忙しくなるでしょう。ってか忙しくするでしょう。熱く、熱く、熱く。全力投球(たまにチェンジアップ)もしくはミスターフルスイングで。

 あえて言えば、音楽の年でした。いろいろなバンド、いろいろな音楽を聴いて、ロマンと希望と絶望を垣間見た年でした。知らない事も知りました。やってみようと思いました。で、やります。




 来年が良い年になるかなんて分からない。それを思い、考え、決めるのは来年の大晦日の自分なのだから。もしくは死んだ時なのだから。

2012年12月25日火曜日

病人(やみんちゅ)の限界

この前、あるギタリストな方と、JAMというか一緒にスタジオに入りました。


終わった後、帰宅。次の日の昼まで動けませんでした


その日ってのはライブがあって、すげ盛り上がりました。


次の日の昼まで動けませんでした


その日もライブがありました。独特の世界観にドップリはまりました。


次の日の昼まで動けませんでした


その日、外出しました。


帰宅後、すげ疲れたので寝たらAM2:00過ぎてました。

そのまま薬飲んで寝たら、次の日の昼まで動けませんでした


その日、外出しました。

やっと体力的精神的回復の兆しが見えてきました。夕方休んでも2時間程度で元気になったから



そして今、自分はナニをしてるんでしょうかねぇ

五次元イメージ

イメージを

文字にする 筆をとったら絵になる

言葉にする メロディをつけたら歌になる


絵にもいろいろある

水彩画 油絵 鉛筆の落書きでもイメージの表現には変わりない


歌にいろいろ付けると曲になる


ギター ベース ドラム ピアノその他諸々

どちらかと言うとイメージを具現化すると言ってもいい。その具現化に必要なモノ。




音楽でも絵でも何やらルールってもんがあるらしい

ルールというより定跡と言った方がいいか。こうなるようにするにはこうする。それがデッサンだったりコードの進行であったり。


天邪鬼な自分は、それに疑問を抱く。不協和音はルール違反ですか?絵を描いてそれを真っ黒に塗りつぶしちゃいけないんですか?


どんなモノでも最初は模倣から始まる。そしてやがて自分が表現したいイメージが見つかる。それは否定しない。


先人の教えはすごく勉強になる。勉強というより糧になる。ただそれが正しいか正しくないかは結局は自分次第。ここには矛盾がある。



結局の所、一番大切なのは、自分の持つイメージが表現出来れば、ルールとか定跡とかは関係の無い事ということ。


場数を踏む。大切だ。誰かに聞いてもらい、レスポンスを貰う。大切だ。ただそれは自分の持つイメージが固まってからの話な訳で。



線が一次元 面が二次元 高さのあるこの場所が三次元 時の概念を入れると四次元


それすっとばして、心のままにそんな中に入れる五次元



その五次元人間はイメージばかりが先行する。しかもそのイメージは日替わり弁当のようにコロコロ変わる。なかなか固まらない。実に厄介。


ポジティブかと思えばデスなイメージ。ゲンジツとリアルと夢なイメージ。そんなミックスジュース。表現し辛いのは当たり前だ。


でもそれが表現できた時、他には無いモノが出来上がる。可能性はある。そう信じてる。信じてるじゃねぇな。出来る出来ないの問題じゃない。やるんだ。


ピカソが生きてた頃、ズボンが1本しか無くて、恋人と一緒に外に出れなかった。なんてのは有名な話だ。

ピカソだってゴッホだって、死んでから絵が評価された。死ななきゃ評価されないのか?なんて思うけど、生きてるうちに評価それる人もいる。



それにはまず、そのイメージしたモノを出さなきゃね。自分がルールブックです。自己満足のオナニーで済ませるつもりはさらさら無い。五次元イメージも出して初めて評価されるのだから。





とは言っても、基盤あっての物種。 その為に何をするか知ってるだけでも前進出来る。

2012年12月18日火曜日

無駄な努力?

 一連の選挙が終わり、なんか競馬の予想みたいな流れから結果が出ました。そして今度は何が始まったかと言うと、日本がどうなる?的な事柄が出てきてます。

 当選者は当然喜ぶ。何故?国会議員という肩書きをもらったから?でかく給料もらえるから?国民代表として言葉を発する権利をもらったから?国わ動かせるかもしれないから?

 前半はともかく、後者の2つはとてつもなく責任と苦痛が伴うと思うのですが。それでもなりたいから出馬して、当選したんだから、それ相応の努力と長い物には巻かれないで欲しいですね。これからが始まりなんですから。


 で、落選した方は、結局、そこまでの(当選する票を獲得できなかった)人間だった。と思うのか、それまで発してきた努力や言葉は無駄だったのか?となるとそれはそれで別だと思います。

 結果だけ言えば、無職になってつぎこんだ金も無くなって無駄に時間を浪費したってことになってしまうのですが、それはそれで始まりだと思うのです。


 そこで諦める人。日本オワター。何故?自分の意向にそぐわないから。で、それでいいのでしょうか。自分は違うと思います。口が無くなったわけじゃない。足が無くなった訳じゃない。ましてや死んでる訳でもない。

 それまで死ぬ程努力してきて結果が失敗だからと言って、その努力は無駄じゃないと思うのです。糧となり、次に繋がる。何故失敗だった?努力が足りなかった?そもそもその器じゃなかった?ただ、予選で落ちただけなのに。


 そんな事は日常にだって多く転がってると思います。例えば大学入試。受験した人は、皆その大学に受かるように勉強しますが、受かる人、落ちる人出てきます。で、落ちた人の勉強に費やした時間は無駄だったのでしょうか?

 当然、相応のレベルってのがあると思います。ここなら大丈夫。でも1ランク上にすると厳しいかも。。。でも挑戦してみる。結果失敗だった。これって無理、無駄なんでしょうかね。


  例えば月にハシゴをかけるなんてのは夢物語だとしても、月に行くってのは可能性があり、何度の失敗を重ねた結果、月に行く事ができた。行けた人はヒーローですが失敗し、行けなかった人の努力って無駄なんでしょうか?

 宇宙飛行士を夢見る事。これは簡単。でも宇宙飛行士になる事は尋常じゃなく難しい。皆、必死に努力する。なれた人、なれなかった人。いや無理だからと鼻から諦め努力というか挑戦もしない人。どの結果でもなれた人意外は同じです。違うといえば挑戦したかしなかったか。


 どっちが正解とかじゃなく、違いは大きくあると思います。努力には苦痛が伴います。これはどんなものだってそう。その努力が実を結ぶか結ばないかは結果でしか分からない。未来なんて分からないからその努力が無駄かどうかなんて分からない。というより無駄な努力なんてないんじゃないか。と思うのです。



 目標定めて飛ぶ助走。厳しい、辛い、痛い、苦しい。でもそれはどう受け入れるかは自分次第。
嫌なら止めればいい。でも嫌じゃないからやるんでしょ?目標まで飛びたいから。例え途中で落ちたとしても。助走でコケたとしても。

2012年12月16日日曜日

変わらないようで変わってる

100年後とかそんなスパンで


そんな劇的に変わるものでもないと思う今日この頃


ただ、見えないぐらい少しずつ変わってるとおもうこのごろ

2012年12月7日金曜日

ココロの熱量

 この1週間、音楽というものから少しばかり距離をおいていました。もちろんあえてです。

 何も聴かず(映画とかの音楽は聴いてたけど)楽器にも手をつけず。。。さてどうなるか。

 12月もライブに行く予定はありますが、この1年、ライブ三昧と言っていいんじゃないかと思うほどライブに行って、いろんなバンドさん達と知り合って、いろんな音楽を知って、ホントに音を楽しんだと思います。

 それが見ている、聴いているだけでは飽き足らず、自分でスタジオに入ってカホン叩いたり、しまいには自分で企画を立ててしまおうんかて企んでいたり。。。。



 話し変わって、自分の好きなものの1つにスノーボードがあります。昨シーズンは行けずじまいでしたが、毎年この時期になると、スキー場チェックしたり、気持ち的にもあーー滑りてーーーなんて思います。

 20歳からスノーボードを始め、やんちゃもしたりケガもしたり(無事な関節の方が少ない)。でも、滑りたい。パウダーランだったり、高速カービングだったり、マジでSEXより気持ち良いと思ってる。ボードの手入れも自分でやるし。まさに一生続けたい趣味であります。

 スキルと度胸の限界を感じ、プロになろうとは思いませんでしたが。一応結婚もして小僧も産まれ、仕事もしててリスクと天秤にかけてゲンジツっつーものをとったのですが。食っていけねーと。



 また、好きなものを生業とすると、どこか、いつか、必ず痛みってのが伴います。イヤだ。と思う時。それは必ずやってきて。イヤだ。というより、キツイと言った方が語弊は無いですね。


 それと同じぐらい好きな音楽。今、そこに片足?1歩?1cm?入ろうとしています。っつか入っています。

 音楽。それはスノーボードみたいな体力が必要で、年齢的に厳しい。。。という制限はありません。どこまで好きか。潜れるかが重要なポイントだと思います。そして人生を賭ける価値は十分にあると思います。

 ただ、今、音楽活動をしていて、音楽1本で食っている人はいったいどれだけいるでしょうか。実際ほとんどいないと思います。また活動が不定期だったりするのでバイトだったりと、安定した収入。と言えるかは難しいと思います。

 だから、活動を辞める人、解散するバンドは今、この時点でも少なくは無い。ロマンとゲンジツの天秤。難しい選択だと思います。


 練習でスキルを高め、ライブを繰り返し。。。その連続。年という単位で時間はかかると思います。その中でゲンジツという波は何度もやってきて、持ちこたえるか、飲み込まれるか。ファンの応援というフォローもありますが、結局決めるのは自分自身。

 それはその事に対してどれだけ心に熱量を持っているか。だと思います。

 今諦めたらぜってー後悔する。諦められない。という物。まだ心が燃焼していて、例え遠ざかっても止めない。諦めない。


 それは凄い熱量だと思います。何せ人生掛かってるんですから。当然、それに対する対価も大きいでしょう。例えばそれがお金だったり、例えばそれが家族だったり。



 まぁ、どちらの選択でも間違いでは無いということ。一度きりの、自分だけの人生なんだから。生まれ変わったって、自我が無ければ無のと同じ。今しかないんです。

 結果、その決断の道がどうだったかなんて分かるのは、死ぬ時なんでしょうね。あの時続けていれば。。。あの時、止めていれば。。。なんて死に際思ったんなら、残念。


 ラオウじゃないですが、我が人生に悔い無し!と雲を突き抜けんばかりに拳を振り上げるのは無理としてもちっちゃくガッツポーズをとれればそれはバラ色の人生だと思います。



 どんな風に生きても、何をするにしても、笑って死にたい。それが自分の最終目標。



 そして、しばらく行ってないライブ。しばらく叩いてないカホンを見て、手がウズウズする俺。

2012年12月4日火曜日

もう始まっているのかもしれない

 2012年12月22日が近づいてまいりました。冬至。でもありますが、オカルト的にマヤ文明による人類終末予言でございます。

 マヤ文明は、いろいろな謎があって、現在の技術をもってしても困難なスカルス・ヘッジ(水晶ドクロ、文字の上のそれを置くと、目にその文字が、また頭頂部には拡大された文字が写る)などのOパーツや飛行船に乗っているような壁画なども有名ですね。

 また太陽暦(現在の太陽暦とほぼ違いがない不思議)とは異なった暦を持っており、最長の暦は2億年を越すとか。まぁそれはおいといて、暦を知るに当たっては、太陽の時計という物を解読している訳なのですが。

 その中で、5000年。という1つの周期がありまして、5000年に一度、大きな事が起きると。その5000年は5回で1サイクル(計2万5000年)とし、その最後のサイクルが今年。という訳で、そこには滅亡と再生が起きると記されているとか。


 終末思想、予言などは多くあって、有名なのが1999年に滅亡すると予言したノストラダムス。他多くの預言者、聖書にもヨハネの黙示録として終末を記してあります。


 まぁ、こじつけ的解釈だったり、どーせ滅亡すんだから好きにやらせてもらうぜ。なんて人もいないのですが、そうですね。現代科学をもってすれば、起こりえない。という結論に達します。


 確実一気に滅亡するんであれば、隕石でも落ちてくるぐらいしかありません。例え核戦争が起きたとしても、滅亡までには至らないでしょう。どこのラインが滅亡というのか。人類のほとんど、1%残ればいいと仮にしておきましょう。それでも6千万人は生き残るという算段ですが。


 ただ、長期スパンで考えると話は別となる訳で。

 地震や噴火、これでも一気にということにはなりません。極地的であっても、大規模であっても。そして後者は考えづらい。 ただしここ数年を見ても、大規模な地震は起きているのは確か。


 異常気象、これも世界中が荒れ狂うというのは考えづらいのですが、理由はさておき地球が温暖化しているのは確かであり、今までに4兆トンの氷が溶け、海面の水位が1cm上がったそうで。

 水が増える→蒸発して雲になる→雨が降る。この水が多くなったらどうなるでしょう。また、海流の変化も考えられます。これも少しずつではありますが。海流があってこそ今の自然がある訳で、それが変化したら。。。当然、今の自然環境と異なってくる。今までに無い現象が起こる可能性はあると言えるのではないかと。


 社会的方面で見てはどうか。滅亡と言いながらも、人類の人口は増え続けている。何故?医療の進化により寿命が延び、死亡する人数より産まれてくる人数の方が多いから。と理由付けられるかもしれません。

 が、寿命は寿命。いずれは亡くなる訳で。その上での少子化。この構図はこれから人口は減っていきますよーと示唆しているとも考えられる。CMでもあるように、途上国、環境が厳しい国では、子供の生存率が低いことも確か。


 これらを全体的に見ると、1999年かは分かりませんが、何か、もう始まっていて、現在進行形なのではないか。とも思うんです。マヤでもノストラダムスでも聖書でもどれでもいいんですが、それはその始まりを示唆していて、何時とは言えませんが、いずれは。。。なんて思ったり。

 それこそ、何時。なんていうのは神のみぞ知る事でありまする。神の子も仏も教えてはくれませぬ。当然人知を超えておりまする。



 言えるのは、信じる信じないは貴方次第であり、どう生きるかも貴方次第である。ということ。