2008年1月9日水曜日

ってか、神様っているん?

 どこぞの宗教団体さん。なんかなにやら怪しい教祖様に大金を渡し、ひと時の休息を得る人達。何をもってそのような宗教団体な入るか、自分には、不思議に思えてなりません。

 キリスト教は聖書。仏教については、お経?、イスラム教にもそのような聖典があったと思います。みなそのような、指南書?ココロ構えを心情とし、それが神の言葉として、それを実行するんだと思います。

 それにならっての行事、ハロウィンやクリスマス、豆まきや結婚、葬式、聖戦など、それらについては、理解できるんです。神の言葉とされる物があり、それを自分の思考として理解し、実行しているので。いわば、神の言葉を参考に、自分自身を清める、耐える、深くする等の行為が行われているからです。

 新興宗教の代表格で言えば、2つの団体(言わなくても、分かるっしょ)があるのですが、このどちらも、真言宗や仏教の教えに則り、教祖さんを頭に組織化された物であるため、入ろうとは思わないですが、その行動には、理解できるんです。

 問題は、自分が神だとか、神の声を聞いたとか、自分が神のトコに行ったとか、訳の分からないことを言う教祖さんとその信者さん。何を求めているかはしらないけど、お布施をじゃんじゃん出して、ちっょとの安息。それが、どうも不可解で。お布施の金額によって、信者レベルも上がるなどと、すげぇケチ臭い神様むがいたもんだねと、呆れてしまいます。

 キリスト教、神社、寺。など、いわゆる寄付というもので、教会、神社などの修繕にあてる。これも理解できます。牧師さんや神主さんや坊主さんとかも食っていかなくてはなりませんしね。

 ただ、それに線引きをするのはどうかと。金を積んだところで、利益はあるのかと。実際に神様と呼ばれる人、もしくは、聖書、お経を理解している人がいるのであれば、賽銭や寄付に金額の大小は関係ないと思います。全知全能ですからね。

 イスラム教で行われる、決まった時間に聖地に向かって拝むこと。これも別に金がかかるものではなく、自分自身の満足。神へのお礼とも言える儀式。良いと思います。

 それにしても、今だ、神が創った水でガンが治るとかの聖水一杯うん万円とか、お布施がうん万以下であれば、駅前に立ち、他の信者さん達を誘導する仕事をしたり、もちろんボランティアで。

 なんども書きますがどうもそれが理解出来ません。どこぞの教祖よろしく、良い車、いい食べ物、デザートにメロンなんておこがましいことをする訳で、お布施と呼ばれるものが、教祖ならびに幹部達の給料?となるのは、なんか納得いきません。あと宗教法人は税金が安いのもなんだかおかしいような気がします。

 信仰というのは、聖書など、神の言葉と呼ばれる物を信じ、それにのっとって行動し、自分自身の満足を得ること。どこの聖書他は教祖は皆と違い、偉いなんて書かれているものなんて無いと思います。

 だから、ベンツに乗ってる教祖など、ヘドがでます。

 信仰している人で、一番好きというか、この人の教えをぜひ聞きたいと思う人。

 マザーテレサですかね。あの人こそ、聖書の教えを貫き、そこに自分自身の満足と新たな希望を見出せる人だと、俺は思います。

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