2008年2月23日土曜日

キリスト教のおばさん

 いわゆる、勧誘のおばさんなんですが、あれ、一発で分かりますね。ってか、自分の家とかじゃなくて、車を運転してる時とかすれ違っても分かります。

 曜日を選ばず、40~50歳程度、服装は地味であり、バッグ等を持っている。大概は2人1組で行動。開始、終了時の集合場所は、あらかじめ決められ、後で報告出来る体制であること。

 特定の住所録等はなく、いわゆる飛込み的に来るんですが、すいませーん。とか言われ、はーいと玄関に行った瞬間から、ヤベ、居留守使えば良かったなんて思ったり。

 で、やはり、聖書のくだりが始まります。聖書というものを読んだことがありますでしょうか。聖書の中には、このような言葉がつづられています(短い詩(聖書の場合、言葉と言うより詩として呼んだ方が自然だと思う))とか言って、聖書の詩を読み上げます。

 朗読する聖書の詩は、家族を愛せよ。ならば救われん。みたいな、まぁ後触りの無い詩なんですが。

 ってか、そのような勧誘に合意した事は無いので、聖書を買ってくれ。という勧誘なのか、キリスト教の信者になりなさい。という勧誘なのか、分からないんですが、何がイヤかというと、笑顔。生き生きとしてないってゆーか、仮面を被ってむいるというか。本人等からすれば、暖かみのある笑顔なんでしょうが、みんなそれだとかえって不自然なんですね。

 聖書。よくビジネスホテルとかに泊まると置いてあったりします。聖書をランダムに広げその中の詩を読んだり。(これからは、聖書の中の詩と呼ぼう)最初から読むと、なんか国語辞典読んでるようで、感銘を受けないので。

 聖書は良いのです。1つ1つの詩に意味があり、それを反芻することによって、ココロが穏やかになったり豊かになったり。映画やアニメ、マンガなど、いろいろな表現を行う媒体の中で聖書の詩を表現方法の1つとして取り込んだり。

 なので、俺は聖書を読む事を否定するわけでは無いのです。ただ、あれは、1つの”本”、”詩集”として、その、存在意義を見出すのではないかと思うのです。

 キリスト教といっても、カトリック、プロテスタントなど、今日のNHKでもやっていましたが、1番最初に出たむ物から枝分かれし、それぞれの教えなどになったと思われるのですが。キリスト教。イエスキリストを絶対神として、その中から、分かれていったもの。俺的に言わせてもらえば、なんかしっくりこない物もあったりするんですが。

 イエスキリストを神とするのであれば、イエスキリストが生きている、又は死後、復活後、からそれは誕生した。のであれば、それ以前には、キリスト教を信仰している「人間」は何を神としてあがめていたのか。もしくは、無宗教であったのか。

 キリスト教が始まったのは、西暦1年。現在で2008年とするのですが、それ以前、例えば中国4千年の歴史などの言葉があるとおり、中国、またはインド等、仏教、やイスラム、ヒンズー教、核文明におけるシンボルとしての神は、キリスト教以前からあった事は間違いでは無いと思うのですが。

 最初の疑問。キリスト教自体での争い。宗教戦争といえばキリスト教というような、ローマのカトリック、プロテスタント等同じ神をあがめていながら、うちの教えの法が正しいと相手を説得するわけでもなく、言葉の代わりに槍や剣を使用したことは、世界史を見ればいちもく両全ですね。宗教裁判なんてあるのですから。

 で、第二の疑問。キリスト教が、ナチスと同等のレベルなこと。これも世界史から見れば一目瞭然だと思いますが、キリスト教を広げよう、その他の宗教はクソだ。的に占領していったこと。

 ヨーロッパとアフリカの間に、聖地とよばれる土地があり、自分はそれが、キリスト教の聖地なのか、イスラム教の聖地なのか分からないんですが、それのぶんどり合戦をしたような歴史。

 等々キリスト教に疑問があるのですが。

 イスラムの経典とか、日本の、中国、アジアにおける仏教の経典、神社等であがめているもの。

 それらの中に、人間が滅びると教えの中に書いてあるのは、キリスト教だけではないのかと(悪魔も地獄の存在とかではなく)有名なヨハネの黙示録というヤツなんですが。

 ってか、それって、ヨハネさんがキリストさんから教えてもらいそれを書き記したのか、ヨハネさん自身も神(天使?)となって書いたものなのか。それも理解しづらいところでもあるのですが。

 日本等、アジアの国々には、多くの神様がいます。曼荼羅等見てもわかりますが、分かりやすく言えば、七福神、阿修羅、千手観音、なんたら菩薩。など神は神であり、神でしかないのですが、キリスト教は、神はキリストのみ。そこからピラミッド状に、大天使とか中級天使とかコッパ天使とか。地獄は地獄で、堕天使がサタンとして、存在し。あれ?キリストは天国の神。じゃあ地獄の方は?と理屈が合わないんですが。

 その点は、アジアの方が分かりやすいですね。六道(天界、人間界、地獄界、修羅界、畜生界、餓鬼界)を1つの輪にして、輪廻転生を行う。人間、生物と神様、仏様は別とし(人間が仏になるものもある)神が人間を裁くもので。

 なんで、別にキリスト教を叩くわけでは決してないのですが、俺が、俺自身が信仰するかっていうと、無理かなってのが言いたくて。

 自分がそのキリスト教のおばさん達を遠まわしに早く帰ってもらう方法として、こんな事をいいます。

 「聖書について、いくらかは読んだことがあります。その中には、穏やかな物や愛に溢れるものもありますよね。ですが、聖書やキリスト教の教えで、行動することは、しません。なんでかって言うと、自分の行動は自分が行うからです。いわば自分が人間であり神であって、それ以外の神は信じてはいない。良い事も悪い事も、自分がそれを選択して行ったわけで、それは神様が決めたことではないからです。そこに神様が関与することはなく、それにすがっても助けてはくれないかです。それを解決するのも自分であり、そこで喜びを受けるのも優しさを受けるのも自分自身。自分を信じ、そして行動しています。聖書は確かにいいものです。時には読みたい時もあります。ただ、それに縛られるのはイヤです。理由は先ほどのべた通りだからです。なのでよろしいのでしょうか?」

 おばさんの笑顔の裏で、早く帰りたい。。。ときっと思ってるはず。と密かにほくそえむ俺。ってか、だから俺って話し長いって言われるのかな。。。

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