2008年2月12日火曜日

母のお経

 小学生のころ、ある宗教団体の教会に行く母、自分もそこに行き、テレビを見たり、アイスを食べたりが習慣でした。

 中学生のころ、教会からは足が遠ざかりながらも、中野とか、六日市場等の遠出には行って、真夜中中走るバスでうまく眠れず、フラフラしながら新潟に行ったり、ペンションへ行ったり。

 高校の時、話題はオ○ム心理教一色。宗教団体=悪という風に認識され、そこに行く母が理解できずなんでそこへ行き、お布施なるお金を教会に渡すのか。不思議でたまりませんでした。

 社会人になっての最初のボーナス。父と母にお金は安かったですが、初めて家にお金を入れました。その時、母に、教会のお布施にだけは使わないで、美味しい物とか欲しい物とかを買ってくれとお願いしました。

 そして今、家の近くに、大きな宗教団体があり、他の団体の存在を知り、いったいそこで何を頼っているのか、とてもではないですが理解できず、本当の意味で神様の言葉を信じ、それに基づいて生きているのは、マザーテレサだけだと思っています。

 で、実家に行くと、母はかならず朝と夕に般若心経を唱えます。昔は、般若心経が書いてある本を読みながらなのですが、今では完全に記憶されていて、朝食を食べた後にはそれが聞こえてきます。

 母が般若心経を唱えること。これは、俺も、父、アニも生活の一部として捉えられており、それに対する文句も無いんです。もう毎朝夕、一年中ですから。

 そしてかすかに聞こえる、朝は家族が病気もせず健康で暮らすことの願い。夕は健康でくらせたことへの感謝。教会へはもう行ってないみたいですが、この”祈り”と”感謝”は母からすればそれは、母からの神様と家族への祈りと感謝意外の何物でもありません。

 考えると、これって、キリスト教でも、ヒンズー教でも、イスラム教でも、仏教でも、全ての宗教に共通したものではないでしょうか。言葉は違えど、キリスト教では、ご飯の時、ご飯を頂けるお礼として、キリストに感謝の祈りをする。毎週日曜日に教会へ行き、祈ること、そして聖書を読んで、自分への教訓とすること。他の宗教はわかりませんが、イスラム教では、時間となる度に、聖地へ向かいお祈りをすること。それらは全て、自分への、家族への、争いごとや病魔から守って欲しいという願いから来ているものだと思います。

 暖房は無く、寒い神棚の前で、毎朝、毎夕、般若心経を唱え、家族の健康、平和を祈ることは、無宗教な俺でも決して否定することはできません。

 その中にも、水の神様、山の神様、お地蔵様、いろいろな神様に対して、祈り、通り過ぎながらでも良いと俺は思っています。ココロの少しの隙間にその祈りがあれば、それに根拠はありませんが、絶体絶命のピンチなどは起きないような。そんな感じがします。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

世の中にはいろんな宗教があって・・・おツレさまから付きあい始めた頃に言われたのが「おかしな新興宗教にはまったら、即別れるからな」だったな。それ以来、色んな神様はいるけれど私の教祖はおツレさま一筋です!!

昨夜、おツレさま母の一周忌でした。私が用意したお姑さんの花に向かっておツレさまは拍手を打っていました。仏様に拍手??と思ったけれど、あの義母なら仏様じゃなくて神様になっていてもおかしくないなと思いましたマル

hina666 さんのコメント...

それほど良い義母さまだったのですね。拍子をうつのは、ま、まぁ良いかと思いますが、親がいて、その親がいて、その親がいて自分がいることを忘れてはいけませんね。

お盆等に表される、祖先への祈り、お墓参りでみんなでご飯。なんてのも、日本人ならではのことだと思います。

自分の親も70歳。未だ子ども子ども。として見られておりまする(笑